『王太子殿下は籠の鳥の姫と愛おしき逢瀬を重ねる ~やり直しの花嫁~』のSSです2023年09月29日 17:20

王太子殿下は籠の鳥の姫と愛おしき逢瀬を重ねる



ユーディットがひとりパゴニアに帰郷し、ふたりが離れ離れになっていた間、アーデルベルトが何をしていたのかちょっと書いてみました。
タイトルは『いつか恋を知る日が来たら』。
アーセファ王子視点です。
SSと言いつつ約10000字あります(ごめんなさい)。

王太子殿下、思ってたのより愛が重い男でした……。



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 ほんとは、ずっと前からわかってたんだ。

 オレん家(ち)、なんかおかしくね?



 オレん家は流民の一家だ。
 オレの親父とおふくろは、まだ物心もついてないオレの手を引き、国境を超えて、この港町にたどり着いた。
 親父とおふくろが生まれ育った故郷を捨てた理由を聞いたことはないが、なんでこの町を定住の地に選んだのかはなんとなく理解できる。
 この港町には世界じゅうから、いろんな国のいろんな人種が集まってくる。
 褐色の肌に、漆黒の髪、漆黒の瞳。いかにも南方人っていう親父とおふくろでも、この港町ならさほど目立つことはないと考えたんだろう。
 あるいは、親父とおふくろは生まれ故郷で何かヤバいことでもやらかしたのかもしれない。それで、そこにはいられなくなって逃げてきたのかも。
 まあ、全部ただの想像だけど。
 何はともあれ、この港町で、親父は荷役の仕事を得、手先の器用だったおふくろはお針子やなんかをして、オレを育てた。
 弟が生まれたのはオレが八歳の時。
 子供心にも、あれ?って思ったね。
 だって、赤ん坊のくせに弟は親父そっくりだったから。
 その翌年に今度は妹が生まれたんだが、こっちはおふくろそっくり。
 このころからよく言われるようになったんだ。
『アーセファだけ似ていないのね』
 親父もおふくろも弟も妹も、褐色の肌に、漆黒の髪、漆黒の瞳。
 いっぽうオレは、一応、黒い髪に黒い瞳だったが、漆黒にはほど遠く、肌も褐色と呼ぶのは憚られた。せいぜい、小麦色ってとこだ。
 オレは気づいた。
 ガキだったけど、気づいてしまったんだ。

『どうしてオレだけ違うんだ?』

 そういえば、弟や妹は両親と同じ部屋で寝ているのに、オレにはひとり部屋が与えられていた。しかも、この狭い家の中で一番陽当たりのいい広い部屋だ。
 町でもちょっと金持ってる家の子が通うような学校で読み書きや計算を習わせてもらったのもオレだけ。新しい服を縫ってもらえるのもオレだけで、弟や妹はオレやおふくろのお古を仕立て直した今にもすり切れそうな服を着せられていた。
 魚はいつも一番大きいやつが親父やおふくろでなくオレの皿に乗せられたし、パンや肉も一番いいところが切り分けられた。
 おまけに、親父は一度もオレを叱ったことがない。オレが、どんないたずらをしようと、どれだけ生意気な口を叩こうと、眉尻を下げ、困った顔をするだけだ。
 なのに……。
 弟が三歳の時だった。いや、二歳だったかな? まあ、そんくらいのチビのころ、弟は騒ぎを起こした。近所の家に向かって石を投げたのだ。ようやく歩き始めたばかりの妹も一緒だった。
 その家にはよく吠えるデカい犬がいた。弟にしてみたら、ただ怖かったから石を投げたんだろうが、それを知った親父はものすごい剣幕で弟と妹を叱った。
 初めて遠慮なくデカい声で怒鳴る親父の声を聞いて、オレは、驚くと同時に、妙に悟ったね。
 
 ああ。オレ、この家の子じゃないのかもな、って。
 
 蔑ろにされてるわけじゃない。
 むしろ、大事にされてる。大事にされ過ぎてる。
 親父とおふくろにとって、オレは腫物なのだ。取り扱い注意の異物。
 そのあと、さらに弟と妹が増えたが、やっぱり、オレには少しも似ていなかった。
 もう、こうなったら、確定だろ。
 だから、オレは働ける年になると同時に家を出た。
 もちろん、大反対されたが、親父もおふくろもオレを説得できる言葉を持っていなかった。
 だって、そうだろ?
 親父も、おふくろも、なんか隠してる。その『なんか』を隠したままでオレを納得させることなんかできないって、当の本人たちが一番よくわかってるはずなんだから。
 幸い、職はすぐに得ることができた。
 宿屋の食堂の給仕だ。
 これも親父とおふくろが特別に教育を受けさせてくれたおかげだ。そうでなかったら、厨房の下働きにでさえ雇ってもらえなかったかもしれない。
 初めて親父とおふくろの特別扱いに感謝したが、弟や妹たちのことを思うと、やはり、心中は複雑だった。
 食堂の給仕は思っていたよりは大変だった。
 忙しいわ、立ち仕事はきついわで、最初は怒鳴られてばかりだった。
 それでも、慣れてくると、それなりの楽しみも見つけられた。
 なんたって、ここは港町。世界じゅうからいろんな人が集まってくる。
 ここは、あらゆる情報の宝庫だった。
 船乗り。商人。旅人。彼らの話は、どれも目新しく、聞いているだけでオレの心を躍らせる。
 そんなある日の夜だ。
 晩飯時の一番忙しいのが一段落した時間帯だった。
 注文のエールをふたつテーブルに置いた途端、客のひとりからふいに話しかけられた。
 ふたり連れの客だった。どちらも若い男で、服装からは船乗りではなく商人のように見えた。
 その片割れの濃いブラウンの髪のほうの客がさりげなくオレに視線を向けて言った。
「きみがバラカートのところの子かい?」
 オレは思わず声を上げていた。
「きみ!?」
 だって、生まれてこの方『きみ』なんて呼びかけられたことはない。
 『おい』とか『おまえ』とか『てめえ』とか『このクソガキ』とか。
 それがこの港町の普通だ。
 なのに『きみ』。気持ち悪くて鳥肌が立ちそうだ。
 だが、目の前の客はオレのことなんか気にも止めた様子はなく、さらに、言葉を募らせる。
「バラカートだよ。背の高い。壮年のいかつい男だ」
「……」
「……もっと言うなら、背中に大きな刀傷がある」
 オレは目をすがめてこの不躾な客を観察した。
 座っていてもわかるほどの長身だ。細身ながら、身体つきはしっかりしている。姿勢もいい。
 商人ふうを装ってはいるが、たぶん、どこかいいところの貴族かなんかに仕えてる騎士。あるいは、その貴族本人かもしれない。
 ということは、もう一人の客はこいつの従者かなんかか。
 とにかく、うさんくさい。うさんくさ過ぎる客なのはまちがいない。
「……バラカートならうちの親父だけど……」
 オレは警戒心たっぷりに答える。
 オレがどこの子かなんて、この店の従業員なら誰でも知ってる。特段隠すことじゃない。
 でも……。
「あんたの言ってるバラカートと同じかどうかは知らないよ。オレは親父の背中を見たことないから」
 嘘ではない。本当の話だ。
 親父は家族の誰よりも早起きで、夜はオレたちを先に休ませてから湯を使うし、荷役という仕事柄、いつも厚手の服をしっかり着込んでいる。
 隠してたのか。
 親父は敢えて背中の傷をオレに見せなかった。
 でも、それなら、なぜ、こいつは家族も知らない親父の秘密を知っている?
 いっそう警戒心を深めたオレに、若い男は意味ありげな笑みを向ける。
 その顔に違和感が募った。なんか、引っかかってるのに、それがなんなのかわからないもどかしさだ。
 若い男は言った。
「バラカートは君の父親ではないよ」
「あ。そう。それが何か?」
 意外なほど衝撃は受けなかった。
 だって、そんなこと、もうとっくの昔に気づいてたから。
「きみは本当の父親のことを知りたくないのかい?」
「別に。興味ないね」
「どうして?」
「今さら知ったところでどうなんの? その人、既にオレの人生とは無関係の人でしょ」
 強がっているわけではない。それが本心だった。
 オレ自身にはどうしようもないところで、これ以上心をかき乱されるのはごめんだ。
 男は、少しだけ思案したのち、今度は別の質問をする。
「では、現在はバラカートの妻となっているダリヤのことは?」
 オレは眉をひそめる。
「いやに口はばったい言い方するね」
「バラカートとダリヤがきみを連れてこの港町に落ち延びた時、彼らは同士ではあったが夫婦ではなかった」
「同士? どういうこと?」
「ダリヤは手先が器用だろう?」
 いきなり、思ってもみた方向に質問が飛んでオレは黙り込む。そんなオレを追い詰めるように、若い男の声がオレの耳を穿つ。
「今はお針子をしているそうだが、彼女が本当に得意なのは刺繍だ。君の本当の母親のドレスも彼女の手による刺繍で美しく彩られていたはずだよ」
 ぴくり。
 唇の端が震えたのが自分でもわかった。
「さすがに母親のことは気になるかい?」
 若い男の視線が近づいてくる。
 耳元にささやき声が触れる。
「きみの母親の名はベルタ」
「……っ」
「コラキス王の二番目の妃だった人だよ」
 はっとしてオレは顔を上げる。
 びっくりするほど青い青い瞳がオレを見つめていた。
 それで、オレはようやくさっきから感じていた違和感の正体に気づく。
 この瞳に、濃いブラウンの髪はそぐわない。おそらく、染めているのだろう。自身の正体を隠すために。
「……あんた、誰だよ?」
 青い青い瞳が微笑んだ。
「俺はガレアのアーデルベルト」
「……ガレア……?」
「俺に会いたくなったらここに連絡をくれ」
 ハイともイイエとも答えないうちに小さな紙きれを掌の中にねじ込まれた。
 呆然とするオレを大将のダミ声が呼びつける。
「おい! アーセファ! 何やってんだ! これ、運べ!」
「あっ! はい! すみません!」
 急いでカウンターに戻り、できた料理を別のテーブルに運ぶ。
 気がついた時には、もう、あのふたり組はいなかった。
 まるで、夢でも見ているみたいだった。



 くそっ。くそっ。くそっ。
 オレは小さな紙切れを掌の中にきつく握って通りを急ぐ。
 くそっ。くそっ。くそっ。
 腹が立つ。頭に来る。いらだちでどうにかなりそうだ。
 何が気に入らないって、結局、何もかもがあの青い瞳の男の思うままだってこと。誰かの掌の上で転がされるのがこんなにも面白くないことだったなんて一生知りたくなかった。
 青い青い瞳をした若い男にそそのかされたオレは、即、親父とおふくろに問い質した。
『オレの母親がコラキス王妃ベルタだって言ってる人がいるんだけど、それ、ほんとの話?』
 我ながら、直截だった。溜めも前置きもなかった。
 おふくろは瞬時に泣き崩れた。
 そんなおふくろを親父はかばうように抱き寄せる。
 なんか、オレが悪者みたいじゃん?
 オレは心の中でそうつぶやいたが、あながち、それはまちがいじゃないと思う。
 オレの存在が、このふたりの運命を狂わせた。
 オレがいなければ、この人たちは祖国を捨てることもなかったのかもしれないのだ。
 さすがに、もう、隠せないって思ったんだろう。
 親父は重い口を開いた。
 それによると、親父はコラキスの騎士。おふくろはコラキス王ゲオルグの二番目の妃ベルタの侍女。
 オレの本当の母親ベルタ妃は、オレを死産だったと偽り、ふたりにオレを託した。
 なぜ、そんなことをしたのかについては聞くまでもない。
 コラキス王ゲオルグは妻殺し子殺しで有名だ。
 たしか、現在の王妃は五番目だったはず。
 それまでの四人は子供たちも含めすべて非業の死を遂げている。
 王妃の命を受け、騎士バラカートと侍女ダリヤは、乳飲み子を連れコラキスを脱出し、やがて、この港町に流れ着いた。
 おそらく、親父とおふくろ―――バラカートとダリヤは、始めはただ夫婦を装っていたのだろうが、若い男と女がひとつ屋根の下で暮らしていれば、そこは、まあ、いろいろあるよね。
 オレとすぐ下の弟の年が八つも離れているのが、なんとなく、腑に落ちた。
 ふたりが偽の夫婦から本物の夫婦になるのにそのくらいの年月がかかったってわけだ。
 育てのとはいえ、親のそういう事情、できれば知りたくなかったわ。
 おふくろは、オレの足元にひれ伏すと涙ながらに言った。
『お願いでございます。どうぞ、祖国をお救いください』
 なんだそれ、って思った。
 なんだそれなんだそれなんだそれ。
 オレの本当の親のことなんかどうだってよかった。
 オレは、今までどおり、この港町で、ただのアーセファとして、これからもずっと生きていくつもりだった。
 なのに……。
 確かに、コラキスのゲオルグは残虐な王として名高い。
 国民のことなんかそっちのけで戦争のことにしか頭にないバカ王だ。
 そんな愚王を戴かねばならない国民の苦しみはいかばかりだろう。
 わかるけど、でも、なんでオレが責任を負わなきゃならない?
 あまりの理不尽さに、腹の中が煮えたぎるようだった。
 裏腹に、胸は、しん、と冷えていく。
 そうか。オレは、この人たちのことをずっと親だと思ってきたし、今も親だと思ってるけど、親父とおふくろにとって、オレは、最初から最後まで、『息子』じゃなくて『王子さま』だったんだ。
 そんなのアリかよ。
 でも、オレは何も言えなかった。
 何をどうあがいたって、これがオレの現実なのだ。
 オレは、無言のまま、今までオレが親父とおふくろだと思っていた人たちに背を向け家を飛び出した。
 気がつけば、いつのまにか、オレの足はあの青い青い瞳の若い男に指示された場所に向かっていた。
 ヤツの言うなりになるようで癪だが、それ以上に、何かひとこと言ってやらなければ気が済まなかった。
 おまえが余計なことを言わなければ、オレは、まだ、バラカートとダリヤの息子でいられたのに。
 すべてをぶち壊したのはほかならぬヤツだ。
 ヤツが無理やりオレに握らせた紙に描かれていたのは、裏路地にある薄汚れた石造りの建物だった。その半地下にある扉を叩くと、中から出てきたのは今にもあの世から迎えが来そうな老婆だった。
 くしゃくしゃになった紙切れを無言で見せたオレに、奥から出てきたいかつい男が目線だけでついてこいと示す。
 おとなしく従いはしたものの、オレの腹の中はまだ燃え盛る火の上にかけられた鍋みたいにぐつぐつ言っている。
 いかつい男は、港までオレをいざなうと、別の男にオレを引き渡した。
 連れていかれたのは、港に停泊する船の一室。
 薄暗い船倉で、ランプの光を受け、青い青い瞳が世界で一番貴重な宝石みたいに輝きを放っていた。
 オレはそいつから目を離さず口を開く。
「よう。王太子殿下」
 ヤツの青い青い瞳に、にこっ、と笑みが浮かんだ。
 いやになるくらいさわやかな笑みだった。
 さわやか過ぎて、むしろ、うさんくさいわ。
「ごきげんよう。アーセファ王子。俺が誰だか、よくわかったね」
「あんたが自分で名乗ったんだろうが」
 病弱な息子が無事大人になれるかどうか危ぶんだガレア王ヘルマンは、国を出奔した弟の子をリンドベルグから呼び寄せ王太子とした。
 当時は船乗りたちの間でけっこうな噂になったんだ。
 伯爵家の次男が大国ガレアの王太子に大出世したってね。
 もちろん、その棚ボタ野郎の名前がアーデルベルトだってことも。
 港町の情報、舐めんなよ。
「それで? オレに何をさせたいわけ?」
 そう言うと、青い青い瞳に浮かぶ笑みが深くなる。
「聡明なきみには、俺がきみに何を求めているか、もうわかってるんじゃない? アーセファ王子」
「……その呼び方はやめろ」
「どんな名で呼んだところで、きみがあの男の息子であることに変わりはない。あの、残虐で愚かな王のね」
 いやな男だ。
 何がいやって、たったこれだけの会話でもわかるくらい、頭が切れるところが忌々しい。
 オレは思いっきり眉をひそめた。
 さっきまでオレのおふくろだったダリヤの声が耳の奥で木霊する。
『お願いでございます。どうぞ、祖国をお救いください』
 あんたもかよ。王太子殿下。
 オレに王子さまをやらせたいのかよ。
 アーデルベルトがオレに望んでいるのは、コラキスのゲオルグ王の子アーセファ王子として、ゲオルグから覇権を奪い取ること。
 つまり、クーデターの旗頭になれってことだ。
 そして、ゲオルグから王位を簒奪したのちは、コラキスの内政を安定に導き、各国との関係の正常化を図ること。
 あ。それって、王子さまじゃなくて王さまの仕事じゃん。
 うえ。
 想像しただけで、吐き気がするわ。
「あんたにオレの力なんか必要ないだろ」
 オレはしょっぱい顔をさらにしょっぱくして言う。
「あんただったら、コラキス一国を焦土にするくらいわけないと思うけど」
 ガレアは大国だ。現在の国王は平和主義者のようだが、それでも、ガレアがいまだ強大な軍事力を有していることは皆の知るところだ。
 もっと言うなら、こいつは元々リンドベルグの将軍家の血筋でもある。かなりな剣の使い手だって噂だし、ガレアの王太子になってなかったら、リンドベルグでひとかどの武人になっていたのはまちがいない。
「こんなとこで油売ってないでさ、とっととコラキスに行って、自分の手でゲオルグとかいうおっさんの首を切り落とせばいいじゃん」
「それもいいね」
 ガレアの王太子殿下は喉の奥で低く笑った。
 本気でそう思ってそうな、どこか楽しげな声だった。
 青い青い瞳がまばゆく光る。
 だが、まぶしければまぶしいほど、その光が生み出す影もまた濃くなることも、オレだって知らないわけじゃない。
「……でも」
 ヤツが言った。
 獲物を目にした猛獣のような、どこかうっとりとした声だった。
「でもね。アーセファ王子。それでは、だめなんだ」
「……だめって、何がだよ?」
「欲しいものがある」
 瞬間、青い青い瞳に浮かび上がったものをオレは見逃さなかった。
 それは、深い官能。隠しても隠しても、どこからかとろりと溢れ出すような陶酔。
「戦を挑んでゲオルグの首を落とすことは容易い。だが、その道を選べば、俺の欲しいものの輝きは損なわれるかもしれない。もしも、そうなったら、俺は一生俺を許すことはできないだろう。俺は何があっても完全な形で手に入れたい。そのためなら、こんな回りくどいことだって、いくらでもするのさ」
 ゾク。
 寒気がした。
 ゾク。ゾク。
 背筋が震える。
 恐ろしいと思った。
 このさわやかな笑顔の下にはおぞましいほどの執着が隠されている。
 こいつはそういう男なのだ。
 目的のためなら手段を選ばない。
 だから、大国の王太子ともあろうものが、このような粗末ななりをして、この港町までやってきた。
 なんとしてでも、自分の望みを叶える。
 その執念が、オレさえ知らなかったオレの出生の秘密にヤツを導いた。
「きみにも、いずれ、わかる日がくる。たぶん、ね」
「……」
「その時は、俺がきみの手助けをしよう」
 思わずうなずきそうになった自分を、オレは自分で引き留める。
 ヤバいヤバい。
 うっかりその気になりかけていた。
「それがオレへの報酬ってわけ?」
「そう受け取ってもらってもかまわない、かな」
「でも、それってオレになんの得があんの?」
「王さまになれるよ?」
「興味ないね」
 ほんと。心底どうでもいいわ。
 しかし、ヤツはしつこかった。
 そのよく回る頭と口の回転を止めるには、いったい、どうすればいいんだ?
「きみが俺に協力してくれれば、ことはコラキスの内乱で済ませられる。ガレアの軍事力を以てコラキスを地図から消すよりはよほど平和的だろう?」
「オレには関係ない話だ」
「コラキスの国民だって喜ぶよ?」
「オレは別にうれしくもなんともない」
「そう? でも、きみの育ての親は喜ぶんじゃない?」
 まるで見てきたようなことを言う。
 ムッとして黙り込むオレに、アーデルベルトはやけにさわやかに笑いかけた。
 だが、このさわやかさの裏には、もっと別の重苦しいものが潜んでいることを、オレはもう知ってしまった。
「大丈夫。きみはやるよ」
 それは、予言を超えて、既に断言だった。
「だってさ、国を変えるんだよ? ゲオルグの圧制に困窮する国民をきみが救うんだ。きみは英雄になる。それはきみにしかできないことだ。そう考えたら、わくわくしないかい?」
 そそのかされている。
 この港町で給仕として一生を終えるか。
 それとも、ここから飛び出し、救国の王子として生きるのか。
 おまえはそのどちらを選ぶのかと選択を突きつけられている。
「オレは……」
 気がつけば、胸の奥が熱くなっていた。
 オレにしかできないことがある。
 それが魔法の言葉のようにオレの頭の中を飛び回っている。
 コラキスの国民は疲弊しきっている。これ以上持ちこたえられないところまで落ち切っているのを、恐怖政治でなんとかしのいでいる状態だ。
 できるものならゲオルグを粛清したいと考えている者は少なくないはずだが、彼らが実行に至らない理由はいくつか考えられる。
 たとえば、失敗した時は誰が責任を取るのかとか、もし、仮にうまくいったとして政変後は誰がリーダーになるのかとか、リーダーになったとしても王位は継ぐのかとか、継いだ場合、その誰かは各国から簒奪者のそしりを受けないかとか……。
 でも、これって、オレがいれば、全部、一発で解決するんだよな。
 なんたって、オレは王家の血を引く正当な後継者なんだから。
 確かに、ほかの誰にもできないことだ。たとえ、ぽっと出の王子さまでも、オレには大義名分がある。大義名分さえもない政変は暴力と変わらない。
 それに……。
 今まで、オレの世界はこの港町だった。ここだけがオレの居場所だった。
 でも、心のどこかでは、いつも、あの海の向こうには何があるんだろうって考えていたような気がする。
 もしも、目の前のこの青い青い瞳をした男の手を取れば、海の向こうに広がる、もっと、もっと、広いところへ行けるかもしれない。
 そして、そこでは、いまだ見たことも触れたこともないたくさんのものがオレを待っている。
 オレの目の前で悪魔が笑っていた。
「さあ。どうする?」

 オレは―――。


「……か…」
 軽やかな声が耳の奥を揺らした。
「……殿下。アーセファ殿下」
 鈴を転がすような、とはこういう声のことを言うのだろう。
 ざわめきの中でも、すっと心の中に忍び入ってくる、そんな不思議な声の持ち主は、ちょっと不満顔でオレをにらんでいる。
 オレは笑ってその声の主を見返した。
「ああ。失礼」
 つくろったわけではない。その少し青みがかった紫の瞳を見ると、なぜか、自然とオレの口元に微笑みが浮かんでくるのだ。
「ああ、失礼、ではありません。さっきから何度もお名前をお呼びしているのに応えてくださらないんですもの」
 オレの声色をまね、かわいらしく唇を尖らせているこのパゴニアの姫ぎみは、なんと、オレの婚約者さまである。
 いや、まあ、厳密には、まだ『候補』だけど。
 ゆるくカールした薄い金色の髪に、すきとおるように白い肌。
 青みがかった紫の瞳はぱっちりと大きく、ふっくらした頬には笑うと片えくぼができる。
 だが、何よりも彼女の魅力を大きく形作っているのは、その純粋な心根だろう。
 穢れを知らぬシャルロッテ。
 オレには、ただひたすらにまぶしい。
 オレは、思わず目を細めながら、記憶の中を漂っていた意識を呼び戻し、目の前の愛らしい姫ぎみに向き直る。
「すみません。おふたりがあまりにもお幸せそうなので、つい、見入ってしまいました」
 ちらりと向けた視線の先では、金色の髪に青い青い瞳をした若い男が、大勢の人に囲まれてさわやかな笑顔を振りまいている。
 うっかり苦笑しそうなったのをこらえるのに苦労した。
 今日のアーデルベルトはおめでたい席に相応しい華やかな装いだ。ガレア王家の色である青の礼装をきちっと着こなし、一部の隙もない王太子さまぶりである。
(初めて会った時とは大違いだな)
 あの時のアーデルベルトは、髪を濃いブラウンに染め、服装も市井の商人ふうだった。特別おかしな身なりというわけでもなかったのに、やはり、しっくりこなかったのは、あれが本来のヤツの姿ではなかったからなのだろう。
 王太子然とした姿には、あの時覚えたような違和感はかけらもなかった。
 オレのいささか皮肉めいた感情など気づく気配もなく、純真な姫は目を輝かせた。
「ええ。ほんとうに、お義兄さまもお姉さまもお幸せそう」
 お姉さまというのは、シャルロッテの実の姉で、前ガレア王の後室だった女性だ。
 名をユーディットという。
 パゴニアの鉱山に目をつけたコラキス王ゲオルグに求婚され、それから逃れるために、祖父と孫ほどにも年齢の違う前のガレア王に嫁いだ。
 ゲオルグと結婚するということは、つまり、死ぬことと同じだ。
 生き延びるためにじいさんの後添いになったからって、誰が彼女を責められるだろうか。
 なのに、前王の死後もガレアに残った彼女のことを、ガレアの貴族たちは『人質』と呼んで謗ったそうだ。
 オレも、まあ、人のことは言えないが、波乱万丈の半生を過ごしてきたなかなかに気の毒な人なんじゃないかと思う。
 でも、何より気の毒だと思うのは……。
 オレは、ヤツの隣で、赤子を抱いて、やさしげに微笑んでいる彼女に同情の目を向ける。
 前王の未亡人ユーディットは、ガレアの王宮にとどまっている間に、リンドベルグから王太子になるべくやってきたヤツと出会った。
 そして、ヤツに見初められ、今やガレアの王太子妃である。
 先日、第一子となる王子を出産。
 今日はその祝いの席だ。
 オレも、シャルロッテ姫も、その祝いのために、遠いガレアまではせ参じたというわけだ。
 オレはユーディット妃の横でさわやかな笑顔を浮かべているヤツを見て目をすがめる。
 一点の曇りもない王太子顔の下の本性を知る者は多くないだろう。
 おそらくは、いつもヤツのそば近く侍ってる側近―――マンフレートといったか―――だって、よくわかってないんじゃないだろうか。
 ヤツを取り囲んでいる貴族たちは口々に「世継ぎの誕生だ。ほんとうにめでたい」だの「これでガレアも安泰だ」だの言ってるけど、オレは知ってる。
 ヤツはあの新生児を将来のガレア王にしようなんてこれっぽっちも考えていない。いずれ、現在の王の実子に王位を譲る気でいる。
 ヤツの従弟にあたるフェリクスは、線は細いが、頭のできはよさそうだ。何より、ヤツよりずっと善良そうに見えるし、むしろ、フェリクスがガレア王になったほうが、国民にとっていいんじゃないかとさえ思うことがある。
 だって、ヤツにとってたいせつなのはユーディット妃だけ。
 ヤツの頭にあるのはユーディット妃のことばかり。
 あの時、欲しいものがあると言ったヤツに、オレは震撼した。その執着に慄いた。
 まさか、想像すべくもない。
 ヤツが欲しいものとは、金でも、権力でも、名声でもなかった。
 ヤツにとっては、国王の椅子よりも、ただ一人の女性の心のほうがはるかに重要なのだ。
 コラキスとの戦争を回避したのも、ユーディット妃に好戦的な男だと思われたくない一心から。
 いったい、どんだけええかっこしいなんだ。
 ほんと。びっくりだよ。びっくりし過ぎて、あきれる。
 あの時それを知っていたら、オレは……。
 うん。それでも、やっぱり、ヤツの口車に乗ったのかもしれないな。
 オレは実の父親であるゲオルグを屠ったことを後悔していない。実際に手を下したのはヤツの五番目の妃だが、計画したのも、必要な毒薬を入手したのも、オレとヤツだ。
 ゲオルグは死んだほうがいいヤツだった。国民のためにも。本人のためにも。
 オレがヤツの息子だっていうなら、ヤツの息の根を止めるのはオレしかいない。
 それがゲオルグの息子としてこの世に生まれてきたオレの義務だ。
 かすかに湧き上がってきた感傷を振り切り、オレは、姉の幸せをまるで自分のことのように喜んでいるシャルロッテ姫を微笑ましく見つめる。
 ヤツの声が耳の奥で木霊した。
『きみにも、いずれ、わかる日がくる。たぶん、ね』
 オレは、ヤツほど腹黒くも厚かましくもなれない。執着心も薄い。
 ヤツに比べたら、自分で自分がつまんなくなるほど普通だ。
 そんなオレにも、何をおいても欲しいと思えるものができるだろうか?
『その時は、俺がきみの手助けをしよう』
 少しだけ楽しい気分になった。
 そうだな。
 その時が来たら、今度はオレがヤツを精いっぱいこきつかってやろう。
 それがいい。そうしよう。
 ヤツは腹黒くずる賢い。
 なかなか首を縦に振ってくれない初心なお姫さまの心を射止める方法くらい、いくらでもひねり出してくれるだろう。
 オレは笑ってシャルロッテ姫に腕を差し出す。
 シャルロッテ姫は、オレを上目遣いでそっと見上げたあと、頬を染め、そして……。
 その小さな手を遠慮がちにオレの腕に預けた。

                         おしまい♪