悪役令息の妹に転生したら、モブなのに俺様王子溺愛ルートに突入しました ― 2023年10月24日 06:27
由緒正しきベリエ公爵家の令嬢ララは、八歳のある日、兄のシェラタンが初めての恋に落ちる瞬間を目撃した瞬間、前世の記憶を取り戻した。
ここは、ゲーム『愛と哀しみの☆エトワール』の世界。
ララは顔さえも描いてもらえないモブの中のモブ。
そして、兄の初恋のお相手は、なんと、悪役令嬢だった。
このままでは、兄は悪役令嬢いとしさのあまり悪役令息となり、卒業式の日に断罪。ついでに、お家も断絶。
そんな理不尽なことってアリなの?
兄のシェラタンはとってもやさしい人なのに……。
こうなったら、自分が兄とベリエ公爵家を守るしかない。
決意を胸に、ララはグランシャリオ王立学院に入学する。
この学院で、主人公である平民の少女と攻略対象者筆頭の第二王子シリウスが出会うことから、ベリエ家の悲劇は始まるのだ。
まずは、主人公とシリウス王子のフラグを折りまくらなくちゃ!
超絶美形シリウス王子のあまりのチャラ男ぶりに幻滅しつつもがんばるララ。
しかし、シリウス王子はただのチャラ男ではないようで……?
久々の学園恋愛コメディでした。
楽しく書きました。
楽し過ぎて、気が付いたら200000字超えに……。
でも、たぶん……、たぶん、ですけど、読んでみたら、そんなに長さは感じないのではないのかと思います(希望)。
明るく、楽しく、軽やかに、を目指しました。
ララさんは、前世も今世もごくごく普通の女の子です。
がんばる女の子は書いているこちらも楽しくなりますね。
(蛇足ですが、いつもは、お姫さまらしさってとんな感じかけっこう悩むのですが、転生系だと、現代の女の子の感覚をそのまま出せるので、書いていて非常に楽でした)。
悪い人はほぼほぼ出てきません。ちょびっとだけ事件も起こりますが、風味どころか香りづけ程度です。フレーバー。
難しいことは考えなくてもいい、気楽に読んでいただけるお話だと思います。
姫野的には、ララさんがシリウスを攻略するというよりは、シリウスが登場人物を次々と(恋愛的な意味ではありませんが)攻略していって最終的にララさんが落とされる、って感じになったところが(知らないうちにそうなってた)自分でも面白く感じた一作でした。
ちなみに、タイトルは、『悪役令息の妹に転生したら、モブなのに俺様王子溺愛ルートに突入しました~攻略対象者筆頭との恋なんてありえません~』
です。
長いわー。
長くて、姫野も覚えきれません。ごめんなさい。
『王太子殿下は籠の鳥の姫と愛おしき逢瀬を重ねる ~やり直しの花嫁~』のSSです ― 2023年09月29日 17:20
ユーディットがひとりパゴニアに帰郷し、ふたりが離れ離れになっていた間、アーデルベルトが何をしていたのかちょっと書いてみました。
タイトルは『いつか恋を知る日が来たら』。
アーセファ王子視点です。
SSと言いつつ約10000字あります(ごめんなさい)。
王太子殿下、思ってたのより愛が重い男でした……。
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ほんとは、ずっと前からわかってたんだ。
オレん家(ち)、なんかおかしくね?
オレん家は流民の一家だ。
オレの親父とおふくろは、まだ物心もついてないオレの手を引き、国境を超えて、この港町にたどり着いた。
親父とおふくろが生まれ育った故郷を捨てた理由を聞いたことはないが、なんでこの町を定住の地に選んだのかはなんとなく理解できる。
この港町には世界じゅうから、いろんな国のいろんな人種が集まってくる。
褐色の肌に、漆黒の髪、漆黒の瞳。いかにも南方人っていう親父とおふくろでも、この港町ならさほど目立つことはないと考えたんだろう。
あるいは、親父とおふくろは生まれ故郷で何かヤバいことでもやらかしたのかもしれない。それで、そこにはいられなくなって逃げてきたのかも。
まあ、全部ただの想像だけど。
何はともあれ、この港町で、親父は荷役の仕事を得、手先の器用だったおふくろはお針子やなんかをして、オレを育てた。
弟が生まれたのはオレが八歳の時。
子供心にも、あれ?って思ったね。
だって、赤ん坊のくせに弟は親父そっくりだったから。
その翌年に今度は妹が生まれたんだが、こっちはおふくろそっくり。
このころからよく言われるようになったんだ。
『アーセファだけ似ていないのね』
親父もおふくろも弟も妹も、褐色の肌に、漆黒の髪、漆黒の瞳。
いっぽうオレは、一応、黒い髪に黒い瞳だったが、漆黒にはほど遠く、肌も褐色と呼ぶのは憚られた。せいぜい、小麦色ってとこだ。
オレは気づいた。
ガキだったけど、気づいてしまったんだ。
『どうしてオレだけ違うんだ?』
そういえば、弟や妹は両親と同じ部屋で寝ているのに、オレにはひとり部屋が与えられていた。しかも、この狭い家の中で一番陽当たりのいい広い部屋だ。
町でもちょっと金持ってる家の子が通うような学校で読み書きや計算を習わせてもらったのもオレだけ。新しい服を縫ってもらえるのもオレだけで、弟や妹はオレやおふくろのお古を仕立て直した今にもすり切れそうな服を着せられていた。
魚はいつも一番大きいやつが親父やおふくろでなくオレの皿に乗せられたし、パンや肉も一番いいところが切り分けられた。
おまけに、親父は一度もオレを叱ったことがない。オレが、どんないたずらをしようと、どれだけ生意気な口を叩こうと、眉尻を下げ、困った顔をするだけだ。
なのに……。
弟が三歳の時だった。いや、二歳だったかな? まあ、そんくらいのチビのころ、弟は騒ぎを起こした。近所の家に向かって石を投げたのだ。ようやく歩き始めたばかりの妹も一緒だった。
その家にはよく吠えるデカい犬がいた。弟にしてみたら、ただ怖かったから石を投げたんだろうが、それを知った親父はものすごい剣幕で弟と妹を叱った。
初めて遠慮なくデカい声で怒鳴る親父の声を聞いて、オレは、驚くと同時に、妙に悟ったね。
ああ。オレ、この家の子じゃないのかもな、って。
蔑ろにされてるわけじゃない。
むしろ、大事にされてる。大事にされ過ぎてる。
親父とおふくろにとって、オレは腫物なのだ。取り扱い注意の異物。
そのあと、さらに弟と妹が増えたが、やっぱり、オレには少しも似ていなかった。
もう、こうなったら、確定だろ。
だから、オレは働ける年になると同時に家を出た。
もちろん、大反対されたが、親父もおふくろもオレを説得できる言葉を持っていなかった。
だって、そうだろ?
親父も、おふくろも、なんか隠してる。その『なんか』を隠したままでオレを納得させることなんかできないって、当の本人たちが一番よくわかってるはずなんだから。
幸い、職はすぐに得ることができた。
宿屋の食堂の給仕だ。
これも親父とおふくろが特別に教育を受けさせてくれたおかげだ。そうでなかったら、厨房の下働きにでさえ雇ってもらえなかったかもしれない。
初めて親父とおふくろの特別扱いに感謝したが、弟や妹たちのことを思うと、やはり、心中は複雑だった。
食堂の給仕は思っていたよりは大変だった。
忙しいわ、立ち仕事はきついわで、最初は怒鳴られてばかりだった。
それでも、慣れてくると、それなりの楽しみも見つけられた。
なんたって、ここは港町。世界じゅうからいろんな人が集まってくる。
ここは、あらゆる情報の宝庫だった。
船乗り。商人。旅人。彼らの話は、どれも目新しく、聞いているだけでオレの心を躍らせる。
そんなある日の夜だ。
晩飯時の一番忙しいのが一段落した時間帯だった。
注文のエールをふたつテーブルに置いた途端、客のひとりからふいに話しかけられた。
ふたり連れの客だった。どちらも若い男で、服装からは船乗りではなく商人のように見えた。
その片割れの濃いブラウンの髪のほうの客がさりげなくオレに視線を向けて言った。
「きみがバラカートのところの子かい?」
オレは思わず声を上げていた。
「きみ!?」
だって、生まれてこの方『きみ』なんて呼びかけられたことはない。
『おい』とか『おまえ』とか『てめえ』とか『このクソガキ』とか。
それがこの港町の普通だ。
なのに『きみ』。気持ち悪くて鳥肌が立ちそうだ。
だが、目の前の客はオレのことなんか気にも止めた様子はなく、さらに、言葉を募らせる。
「バラカートだよ。背の高い。壮年のいかつい男だ」
「……」
「……もっと言うなら、背中に大きな刀傷がある」
オレは目をすがめてこの不躾な客を観察した。
座っていてもわかるほどの長身だ。細身ながら、身体つきはしっかりしている。姿勢もいい。
商人ふうを装ってはいるが、たぶん、どこかいいところの貴族かなんかに仕えてる騎士。あるいは、その貴族本人かもしれない。
ということは、もう一人の客はこいつの従者かなんかか。
とにかく、うさんくさい。うさんくさ過ぎる客なのはまちがいない。
「……バラカートならうちの親父だけど……」
オレは警戒心たっぷりに答える。
オレがどこの子かなんて、この店の従業員なら誰でも知ってる。特段隠すことじゃない。
でも……。
「あんたの言ってるバラカートと同じかどうかは知らないよ。オレは親父の背中を見たことないから」
嘘ではない。本当の話だ。
親父は家族の誰よりも早起きで、夜はオレたちを先に休ませてから湯を使うし、荷役という仕事柄、いつも厚手の服をしっかり着込んでいる。
隠してたのか。
親父は敢えて背中の傷をオレに見せなかった。
でも、それなら、なぜ、こいつは家族も知らない親父の秘密を知っている?
いっそう警戒心を深めたオレに、若い男は意味ありげな笑みを向ける。
その顔に違和感が募った。なんか、引っかかってるのに、それがなんなのかわからないもどかしさだ。
若い男は言った。
「バラカートは君の父親ではないよ」
「あ。そう。それが何か?」
意外なほど衝撃は受けなかった。
だって、そんなこと、もうとっくの昔に気づいてたから。
「きみは本当の父親のことを知りたくないのかい?」
「別に。興味ないね」
「どうして?」
「今さら知ったところでどうなんの? その人、既にオレの人生とは無関係の人でしょ」
強がっているわけではない。それが本心だった。
オレ自身にはどうしようもないところで、これ以上心をかき乱されるのはごめんだ。
男は、少しだけ思案したのち、今度は別の質問をする。
「では、現在はバラカートの妻となっているダリヤのことは?」
オレは眉をひそめる。
「いやに口はばったい言い方するね」
「バラカートとダリヤがきみを連れてこの港町に落ち延びた時、彼らは同士ではあったが夫婦ではなかった」
「同士? どういうこと?」
「ダリヤは手先が器用だろう?」
いきなり、思ってもみた方向に質問が飛んでオレは黙り込む。そんなオレを追い詰めるように、若い男の声がオレの耳を穿つ。
「今はお針子をしているそうだが、彼女が本当に得意なのは刺繍だ。君の本当の母親のドレスも彼女の手による刺繍で美しく彩られていたはずだよ」
ぴくり。
唇の端が震えたのが自分でもわかった。
「さすがに母親のことは気になるかい?」
若い男の視線が近づいてくる。
耳元にささやき声が触れる。
「きみの母親の名はベルタ」
「……っ」
「コラキス王の二番目の妃だった人だよ」
はっとしてオレは顔を上げる。
びっくりするほど青い青い瞳がオレを見つめていた。
それで、オレはようやくさっきから感じていた違和感の正体に気づく。
この瞳に、濃いブラウンの髪はそぐわない。おそらく、染めているのだろう。自身の正体を隠すために。
「……あんた、誰だよ?」
青い青い瞳が微笑んだ。
「俺はガレアのアーデルベルト」
「……ガレア……?」
「俺に会いたくなったらここに連絡をくれ」
ハイともイイエとも答えないうちに小さな紙きれを掌の中にねじ込まれた。
呆然とするオレを大将のダミ声が呼びつける。
「おい! アーセファ! 何やってんだ! これ、運べ!」
「あっ! はい! すみません!」
急いでカウンターに戻り、できた料理を別のテーブルに運ぶ。
気がついた時には、もう、あのふたり組はいなかった。
まるで、夢でも見ているみたいだった。
くそっ。くそっ。くそっ。
オレは小さな紙切れを掌の中にきつく握って通りを急ぐ。
くそっ。くそっ。くそっ。
腹が立つ。頭に来る。いらだちでどうにかなりそうだ。
何が気に入らないって、結局、何もかもがあの青い瞳の男の思うままだってこと。誰かの掌の上で転がされるのがこんなにも面白くないことだったなんて一生知りたくなかった。
青い青い瞳をした若い男にそそのかされたオレは、即、親父とおふくろに問い質した。
『オレの母親がコラキス王妃ベルタだって言ってる人がいるんだけど、それ、ほんとの話?』
我ながら、直截だった。溜めも前置きもなかった。
おふくろは瞬時に泣き崩れた。
そんなおふくろを親父はかばうように抱き寄せる。
なんか、オレが悪者みたいじゃん?
オレは心の中でそうつぶやいたが、あながち、それはまちがいじゃないと思う。
オレの存在が、このふたりの運命を狂わせた。
オレがいなければ、この人たちは祖国を捨てることもなかったのかもしれないのだ。
さすがに、もう、隠せないって思ったんだろう。
親父は重い口を開いた。
それによると、親父はコラキスの騎士。おふくろはコラキス王ゲオルグの二番目の妃ベルタの侍女。
オレの本当の母親ベルタ妃は、オレを死産だったと偽り、ふたりにオレを託した。
なぜ、そんなことをしたのかについては聞くまでもない。
コラキス王ゲオルグは妻殺し子殺しで有名だ。
たしか、現在の王妃は五番目だったはず。
それまでの四人は子供たちも含めすべて非業の死を遂げている。
王妃の命を受け、騎士バラカートと侍女ダリヤは、乳飲み子を連れコラキスを脱出し、やがて、この港町に流れ着いた。
おそらく、親父とおふくろ―――バラカートとダリヤは、始めはただ夫婦を装っていたのだろうが、若い男と女がひとつ屋根の下で暮らしていれば、そこは、まあ、いろいろあるよね。
オレとすぐ下の弟の年が八つも離れているのが、なんとなく、腑に落ちた。
ふたりが偽の夫婦から本物の夫婦になるのにそのくらいの年月がかかったってわけだ。
育てのとはいえ、親のそういう事情、できれば知りたくなかったわ。
おふくろは、オレの足元にひれ伏すと涙ながらに言った。
『お願いでございます。どうぞ、祖国をお救いください』
なんだそれ、って思った。
なんだそれなんだそれなんだそれ。
オレの本当の親のことなんかどうだってよかった。
オレは、今までどおり、この港町で、ただのアーセファとして、これからもずっと生きていくつもりだった。
なのに……。
確かに、コラキスのゲオルグは残虐な王として名高い。
国民のことなんかそっちのけで戦争のことにしか頭にないバカ王だ。
そんな愚王を戴かねばならない国民の苦しみはいかばかりだろう。
わかるけど、でも、なんでオレが責任を負わなきゃならない?
あまりの理不尽さに、腹の中が煮えたぎるようだった。
裏腹に、胸は、しん、と冷えていく。
そうか。オレは、この人たちのことをずっと親だと思ってきたし、今も親だと思ってるけど、親父とおふくろにとって、オレは、最初から最後まで、『息子』じゃなくて『王子さま』だったんだ。
そんなのアリかよ。
でも、オレは何も言えなかった。
何をどうあがいたって、これがオレの現実なのだ。
オレは、無言のまま、今までオレが親父とおふくろだと思っていた人たちに背を向け家を飛び出した。
気がつけば、いつのまにか、オレの足はあの青い青い瞳の若い男に指示された場所に向かっていた。
ヤツの言うなりになるようで癪だが、それ以上に、何かひとこと言ってやらなければ気が済まなかった。
おまえが余計なことを言わなければ、オレは、まだ、バラカートとダリヤの息子でいられたのに。
すべてをぶち壊したのはほかならぬヤツだ。
ヤツが無理やりオレに握らせた紙に描かれていたのは、裏路地にある薄汚れた石造りの建物だった。その半地下にある扉を叩くと、中から出てきたのは今にもあの世から迎えが来そうな老婆だった。
くしゃくしゃになった紙切れを無言で見せたオレに、奥から出てきたいかつい男が目線だけでついてこいと示す。
おとなしく従いはしたものの、オレの腹の中はまだ燃え盛る火の上にかけられた鍋みたいにぐつぐつ言っている。
いかつい男は、港までオレをいざなうと、別の男にオレを引き渡した。
連れていかれたのは、港に停泊する船の一室。
薄暗い船倉で、ランプの光を受け、青い青い瞳が世界で一番貴重な宝石みたいに輝きを放っていた。
オレはそいつから目を離さず口を開く。
「よう。王太子殿下」
ヤツの青い青い瞳に、にこっ、と笑みが浮かんだ。
いやになるくらいさわやかな笑みだった。
さわやか過ぎて、むしろ、うさんくさいわ。
「ごきげんよう。アーセファ王子。俺が誰だか、よくわかったね」
「あんたが自分で名乗ったんだろうが」
病弱な息子が無事大人になれるかどうか危ぶんだガレア王ヘルマンは、国を出奔した弟の子をリンドベルグから呼び寄せ王太子とした。
当時は船乗りたちの間でけっこうな噂になったんだ。
伯爵家の次男が大国ガレアの王太子に大出世したってね。
もちろん、その棚ボタ野郎の名前がアーデルベルトだってことも。
港町の情報、舐めんなよ。
「それで? オレに何をさせたいわけ?」
そう言うと、青い青い瞳に浮かぶ笑みが深くなる。
「聡明なきみには、俺がきみに何を求めているか、もうわかってるんじゃない? アーセファ王子」
「……その呼び方はやめろ」
「どんな名で呼んだところで、きみがあの男の息子であることに変わりはない。あの、残虐で愚かな王のね」
いやな男だ。
何がいやって、たったこれだけの会話でもわかるくらい、頭が切れるところが忌々しい。
オレは思いっきり眉をひそめた。
さっきまでオレのおふくろだったダリヤの声が耳の奥で木霊する。
『お願いでございます。どうぞ、祖国をお救いください』
あんたもかよ。王太子殿下。
オレに王子さまをやらせたいのかよ。
アーデルベルトがオレに望んでいるのは、コラキスのゲオルグ王の子アーセファ王子として、ゲオルグから覇権を奪い取ること。
つまり、クーデターの旗頭になれってことだ。
そして、ゲオルグから王位を簒奪したのちは、コラキスの内政を安定に導き、各国との関係の正常化を図ること。
あ。それって、王子さまじゃなくて王さまの仕事じゃん。
うえ。
想像しただけで、吐き気がするわ。
「あんたにオレの力なんか必要ないだろ」
オレはしょっぱい顔をさらにしょっぱくして言う。
「あんただったら、コラキス一国を焦土にするくらいわけないと思うけど」
ガレアは大国だ。現在の国王は平和主義者のようだが、それでも、ガレアがいまだ強大な軍事力を有していることは皆の知るところだ。
もっと言うなら、こいつは元々リンドベルグの将軍家の血筋でもある。かなりな剣の使い手だって噂だし、ガレアの王太子になってなかったら、リンドベルグでひとかどの武人になっていたのはまちがいない。
「こんなとこで油売ってないでさ、とっととコラキスに行って、自分の手でゲオルグとかいうおっさんの首を切り落とせばいいじゃん」
「それもいいね」
ガレアの王太子殿下は喉の奥で低く笑った。
本気でそう思ってそうな、どこか楽しげな声だった。
青い青い瞳がまばゆく光る。
だが、まぶしければまぶしいほど、その光が生み出す影もまた濃くなることも、オレだって知らないわけじゃない。
「……でも」
ヤツが言った。
獲物を目にした猛獣のような、どこかうっとりとした声だった。
「でもね。アーセファ王子。それでは、だめなんだ」
「……だめって、何がだよ?」
「欲しいものがある」
瞬間、青い青い瞳に浮かび上がったものをオレは見逃さなかった。
それは、深い官能。隠しても隠しても、どこからかとろりと溢れ出すような陶酔。
「戦を挑んでゲオルグの首を落とすことは容易い。だが、その道を選べば、俺の欲しいものの輝きは損なわれるかもしれない。もしも、そうなったら、俺は一生俺を許すことはできないだろう。俺は何があっても完全な形で手に入れたい。そのためなら、こんな回りくどいことだって、いくらでもするのさ」
ゾク。
寒気がした。
ゾク。ゾク。
背筋が震える。
恐ろしいと思った。
このさわやかな笑顔の下にはおぞましいほどの執着が隠されている。
こいつはそういう男なのだ。
目的のためなら手段を選ばない。
だから、大国の王太子ともあろうものが、このような粗末ななりをして、この港町までやってきた。
なんとしてでも、自分の望みを叶える。
その執念が、オレさえ知らなかったオレの出生の秘密にヤツを導いた。
「きみにも、いずれ、わかる日がくる。たぶん、ね」
「……」
「その時は、俺がきみの手助けをしよう」
思わずうなずきそうになった自分を、オレは自分で引き留める。
ヤバいヤバい。
うっかりその気になりかけていた。
「それがオレへの報酬ってわけ?」
「そう受け取ってもらってもかまわない、かな」
「でも、それってオレになんの得があんの?」
「王さまになれるよ?」
「興味ないね」
ほんと。心底どうでもいいわ。
しかし、ヤツはしつこかった。
そのよく回る頭と口の回転を止めるには、いったい、どうすればいいんだ?
「きみが俺に協力してくれれば、ことはコラキスの内乱で済ませられる。ガレアの軍事力を以てコラキスを地図から消すよりはよほど平和的だろう?」
「オレには関係ない話だ」
「コラキスの国民だって喜ぶよ?」
「オレは別にうれしくもなんともない」
「そう? でも、きみの育ての親は喜ぶんじゃない?」
まるで見てきたようなことを言う。
ムッとして黙り込むオレに、アーデルベルトはやけにさわやかに笑いかけた。
だが、このさわやかさの裏には、もっと別の重苦しいものが潜んでいることを、オレはもう知ってしまった。
「大丈夫。きみはやるよ」
それは、予言を超えて、既に断言だった。
「だってさ、国を変えるんだよ? ゲオルグの圧制に困窮する国民をきみが救うんだ。きみは英雄になる。それはきみにしかできないことだ。そう考えたら、わくわくしないかい?」
そそのかされている。
この港町で給仕として一生を終えるか。
それとも、ここから飛び出し、救国の王子として生きるのか。
おまえはそのどちらを選ぶのかと選択を突きつけられている。
「オレは……」
気がつけば、胸の奥が熱くなっていた。
オレにしかできないことがある。
それが魔法の言葉のようにオレの頭の中を飛び回っている。
コラキスの国民は疲弊しきっている。これ以上持ちこたえられないところまで落ち切っているのを、恐怖政治でなんとかしのいでいる状態だ。
できるものならゲオルグを粛清したいと考えている者は少なくないはずだが、彼らが実行に至らない理由はいくつか考えられる。
たとえば、失敗した時は誰が責任を取るのかとか、もし、仮にうまくいったとして政変後は誰がリーダーになるのかとか、リーダーになったとしても王位は継ぐのかとか、継いだ場合、その誰かは各国から簒奪者のそしりを受けないかとか……。
でも、これって、オレがいれば、全部、一発で解決するんだよな。
なんたって、オレは王家の血を引く正当な後継者なんだから。
確かに、ほかの誰にもできないことだ。たとえ、ぽっと出の王子さまでも、オレには大義名分がある。大義名分さえもない政変は暴力と変わらない。
それに……。
今まで、オレの世界はこの港町だった。ここだけがオレの居場所だった。
でも、心のどこかでは、いつも、あの海の向こうには何があるんだろうって考えていたような気がする。
もしも、目の前のこの青い青い瞳をした男の手を取れば、海の向こうに広がる、もっと、もっと、広いところへ行けるかもしれない。
そして、そこでは、いまだ見たことも触れたこともないたくさんのものがオレを待っている。
オレの目の前で悪魔が笑っていた。
「さあ。どうする?」
オレは―――。
「……か…」
軽やかな声が耳の奥を揺らした。
「……殿下。アーセファ殿下」
鈴を転がすような、とはこういう声のことを言うのだろう。
ざわめきの中でも、すっと心の中に忍び入ってくる、そんな不思議な声の持ち主は、ちょっと不満顔でオレをにらんでいる。
オレは笑ってその声の主を見返した。
「ああ。失礼」
つくろったわけではない。その少し青みがかった紫の瞳を見ると、なぜか、自然とオレの口元に微笑みが浮かんでくるのだ。
「ああ、失礼、ではありません。さっきから何度もお名前をお呼びしているのに応えてくださらないんですもの」
オレの声色をまね、かわいらしく唇を尖らせているこのパゴニアの姫ぎみは、なんと、オレの婚約者さまである。
いや、まあ、厳密には、まだ『候補』だけど。
ゆるくカールした薄い金色の髪に、すきとおるように白い肌。
青みがかった紫の瞳はぱっちりと大きく、ふっくらした頬には笑うと片えくぼができる。
だが、何よりも彼女の魅力を大きく形作っているのは、その純粋な心根だろう。
穢れを知らぬシャルロッテ。
オレには、ただひたすらにまぶしい。
オレは、思わず目を細めながら、記憶の中を漂っていた意識を呼び戻し、目の前の愛らしい姫ぎみに向き直る。
「すみません。おふたりがあまりにもお幸せそうなので、つい、見入ってしまいました」
ちらりと向けた視線の先では、金色の髪に青い青い瞳をした若い男が、大勢の人に囲まれてさわやかな笑顔を振りまいている。
うっかり苦笑しそうなったのをこらえるのに苦労した。
今日のアーデルベルトはおめでたい席に相応しい華やかな装いだ。ガレア王家の色である青の礼装をきちっと着こなし、一部の隙もない王太子さまぶりである。
(初めて会った時とは大違いだな)
あの時のアーデルベルトは、髪を濃いブラウンに染め、服装も市井の商人ふうだった。特別おかしな身なりというわけでもなかったのに、やはり、しっくりこなかったのは、あれが本来のヤツの姿ではなかったからなのだろう。
王太子然とした姿には、あの時覚えたような違和感はかけらもなかった。
オレのいささか皮肉めいた感情など気づく気配もなく、純真な姫は目を輝かせた。
「ええ。ほんとうに、お義兄さまもお姉さまもお幸せそう」
お姉さまというのは、シャルロッテの実の姉で、前ガレア王の後室だった女性だ。
名をユーディットという。
パゴニアの鉱山に目をつけたコラキス王ゲオルグに求婚され、それから逃れるために、祖父と孫ほどにも年齢の違う前のガレア王に嫁いだ。
ゲオルグと結婚するということは、つまり、死ぬことと同じだ。
生き延びるためにじいさんの後添いになったからって、誰が彼女を責められるだろうか。
なのに、前王の死後もガレアに残った彼女のことを、ガレアの貴族たちは『人質』と呼んで謗ったそうだ。
オレも、まあ、人のことは言えないが、波乱万丈の半生を過ごしてきたなかなかに気の毒な人なんじゃないかと思う。
でも、何より気の毒だと思うのは……。
オレは、ヤツの隣で、赤子を抱いて、やさしげに微笑んでいる彼女に同情の目を向ける。
前王の未亡人ユーディットは、ガレアの王宮にとどまっている間に、リンドベルグから王太子になるべくやってきたヤツと出会った。
そして、ヤツに見初められ、今やガレアの王太子妃である。
先日、第一子となる王子を出産。
今日はその祝いの席だ。
オレも、シャルロッテ姫も、その祝いのために、遠いガレアまではせ参じたというわけだ。
オレはユーディット妃の横でさわやかな笑顔を浮かべているヤツを見て目をすがめる。
一点の曇りもない王太子顔の下の本性を知る者は多くないだろう。
おそらくは、いつもヤツのそば近く侍ってる側近―――マンフレートといったか―――だって、よくわかってないんじゃないだろうか。
ヤツを取り囲んでいる貴族たちは口々に「世継ぎの誕生だ。ほんとうにめでたい」だの「これでガレアも安泰だ」だの言ってるけど、オレは知ってる。
ヤツはあの新生児を将来のガレア王にしようなんてこれっぽっちも考えていない。いずれ、現在の王の実子に王位を譲る気でいる。
ヤツの従弟にあたるフェリクスは、線は細いが、頭のできはよさそうだ。何より、ヤツよりずっと善良そうに見えるし、むしろ、フェリクスがガレア王になったほうが、国民にとっていいんじゃないかとさえ思うことがある。
だって、ヤツにとってたいせつなのはユーディット妃だけ。
ヤツの頭にあるのはユーディット妃のことばかり。
あの時、欲しいものがあると言ったヤツに、オレは震撼した。その執着に慄いた。
まさか、想像すべくもない。
ヤツが欲しいものとは、金でも、権力でも、名声でもなかった。
ヤツにとっては、国王の椅子よりも、ただ一人の女性の心のほうがはるかに重要なのだ。
コラキスとの戦争を回避したのも、ユーディット妃に好戦的な男だと思われたくない一心から。
いったい、どんだけええかっこしいなんだ。
ほんと。びっくりだよ。びっくりし過ぎて、あきれる。
あの時それを知っていたら、オレは……。
うん。それでも、やっぱり、ヤツの口車に乗ったのかもしれないな。
オレは実の父親であるゲオルグを屠ったことを後悔していない。実際に手を下したのはヤツの五番目の妃だが、計画したのも、必要な毒薬を入手したのも、オレとヤツだ。
ゲオルグは死んだほうがいいヤツだった。国民のためにも。本人のためにも。
オレがヤツの息子だっていうなら、ヤツの息の根を止めるのはオレしかいない。
それがゲオルグの息子としてこの世に生まれてきたオレの義務だ。
かすかに湧き上がってきた感傷を振り切り、オレは、姉の幸せをまるで自分のことのように喜んでいるシャルロッテ姫を微笑ましく見つめる。
ヤツの声が耳の奥で木霊した。
『きみにも、いずれ、わかる日がくる。たぶん、ね』
オレは、ヤツほど腹黒くも厚かましくもなれない。執着心も薄い。
ヤツに比べたら、自分で自分がつまんなくなるほど普通だ。
そんなオレにも、何をおいても欲しいと思えるものができるだろうか?
『その時は、俺がきみの手助けをしよう』
少しだけ楽しい気分になった。
そうだな。
その時が来たら、今度はオレがヤツを精いっぱいこきつかってやろう。
それがいい。そうしよう。
ヤツは腹黒くずる賢い。
なかなか首を縦に振ってくれない初心なお姫さまの心を射止める方法くらい、いくらでもひねり出してくれるだろう。
オレは笑ってシャルロッテ姫に腕を差し出す。
シャルロッテ姫は、オレを上目遣いでそっと見上げたあと、頬を染め、そして……。
その小さな手を遠慮がちにオレの腕に預けた。
おしまい♪
ほんとは、ずっと前からわかってたんだ。
オレん家(ち)、なんかおかしくね?
オレん家は流民の一家だ。
オレの親父とおふくろは、まだ物心もついてないオレの手を引き、国境を超えて、この港町にたどり着いた。
親父とおふくろが生まれ育った故郷を捨てた理由を聞いたことはないが、なんでこの町を定住の地に選んだのかはなんとなく理解できる。
この港町には世界じゅうから、いろんな国のいろんな人種が集まってくる。
褐色の肌に、漆黒の髪、漆黒の瞳。いかにも南方人っていう親父とおふくろでも、この港町ならさほど目立つことはないと考えたんだろう。
あるいは、親父とおふくろは生まれ故郷で何かヤバいことでもやらかしたのかもしれない。それで、そこにはいられなくなって逃げてきたのかも。
まあ、全部ただの想像だけど。
何はともあれ、この港町で、親父は荷役の仕事を得、手先の器用だったおふくろはお針子やなんかをして、オレを育てた。
弟が生まれたのはオレが八歳の時。
子供心にも、あれ?って思ったね。
だって、赤ん坊のくせに弟は親父そっくりだったから。
その翌年に今度は妹が生まれたんだが、こっちはおふくろそっくり。
このころからよく言われるようになったんだ。
『アーセファだけ似ていないのね』
親父もおふくろも弟も妹も、褐色の肌に、漆黒の髪、漆黒の瞳。
いっぽうオレは、一応、黒い髪に黒い瞳だったが、漆黒にはほど遠く、肌も褐色と呼ぶのは憚られた。せいぜい、小麦色ってとこだ。
オレは気づいた。
ガキだったけど、気づいてしまったんだ。
『どうしてオレだけ違うんだ?』
そういえば、弟や妹は両親と同じ部屋で寝ているのに、オレにはひとり部屋が与えられていた。しかも、この狭い家の中で一番陽当たりのいい広い部屋だ。
町でもちょっと金持ってる家の子が通うような学校で読み書きや計算を習わせてもらったのもオレだけ。新しい服を縫ってもらえるのもオレだけで、弟や妹はオレやおふくろのお古を仕立て直した今にもすり切れそうな服を着せられていた。
魚はいつも一番大きいやつが親父やおふくろでなくオレの皿に乗せられたし、パンや肉も一番いいところが切り分けられた。
おまけに、親父は一度もオレを叱ったことがない。オレが、どんないたずらをしようと、どれだけ生意気な口を叩こうと、眉尻を下げ、困った顔をするだけだ。
なのに……。
弟が三歳の時だった。いや、二歳だったかな? まあ、そんくらいのチビのころ、弟は騒ぎを起こした。近所の家に向かって石を投げたのだ。ようやく歩き始めたばかりの妹も一緒だった。
その家にはよく吠えるデカい犬がいた。弟にしてみたら、ただ怖かったから石を投げたんだろうが、それを知った親父はものすごい剣幕で弟と妹を叱った。
初めて遠慮なくデカい声で怒鳴る親父の声を聞いて、オレは、驚くと同時に、妙に悟ったね。
ああ。オレ、この家の子じゃないのかもな、って。
蔑ろにされてるわけじゃない。
むしろ、大事にされてる。大事にされ過ぎてる。
親父とおふくろにとって、オレは腫物なのだ。取り扱い注意の異物。
そのあと、さらに弟と妹が増えたが、やっぱり、オレには少しも似ていなかった。
もう、こうなったら、確定だろ。
だから、オレは働ける年になると同時に家を出た。
もちろん、大反対されたが、親父もおふくろもオレを説得できる言葉を持っていなかった。
だって、そうだろ?
親父も、おふくろも、なんか隠してる。その『なんか』を隠したままでオレを納得させることなんかできないって、当の本人たちが一番よくわかってるはずなんだから。
幸い、職はすぐに得ることができた。
宿屋の食堂の給仕だ。
これも親父とおふくろが特別に教育を受けさせてくれたおかげだ。そうでなかったら、厨房の下働きにでさえ雇ってもらえなかったかもしれない。
初めて親父とおふくろの特別扱いに感謝したが、弟や妹たちのことを思うと、やはり、心中は複雑だった。
食堂の給仕は思っていたよりは大変だった。
忙しいわ、立ち仕事はきついわで、最初は怒鳴られてばかりだった。
それでも、慣れてくると、それなりの楽しみも見つけられた。
なんたって、ここは港町。世界じゅうからいろんな人が集まってくる。
ここは、あらゆる情報の宝庫だった。
船乗り。商人。旅人。彼らの話は、どれも目新しく、聞いているだけでオレの心を躍らせる。
そんなある日の夜だ。
晩飯時の一番忙しいのが一段落した時間帯だった。
注文のエールをふたつテーブルに置いた途端、客のひとりからふいに話しかけられた。
ふたり連れの客だった。どちらも若い男で、服装からは船乗りではなく商人のように見えた。
その片割れの濃いブラウンの髪のほうの客がさりげなくオレに視線を向けて言った。
「きみがバラカートのところの子かい?」
オレは思わず声を上げていた。
「きみ!?」
だって、生まれてこの方『きみ』なんて呼びかけられたことはない。
『おい』とか『おまえ』とか『てめえ』とか『このクソガキ』とか。
それがこの港町の普通だ。
なのに『きみ』。気持ち悪くて鳥肌が立ちそうだ。
だが、目の前の客はオレのことなんか気にも止めた様子はなく、さらに、言葉を募らせる。
「バラカートだよ。背の高い。壮年のいかつい男だ」
「……」
「……もっと言うなら、背中に大きな刀傷がある」
オレは目をすがめてこの不躾な客を観察した。
座っていてもわかるほどの長身だ。細身ながら、身体つきはしっかりしている。姿勢もいい。
商人ふうを装ってはいるが、たぶん、どこかいいところの貴族かなんかに仕えてる騎士。あるいは、その貴族本人かもしれない。
ということは、もう一人の客はこいつの従者かなんかか。
とにかく、うさんくさい。うさんくさ過ぎる客なのはまちがいない。
「……バラカートならうちの親父だけど……」
オレは警戒心たっぷりに答える。
オレがどこの子かなんて、この店の従業員なら誰でも知ってる。特段隠すことじゃない。
でも……。
「あんたの言ってるバラカートと同じかどうかは知らないよ。オレは親父の背中を見たことないから」
嘘ではない。本当の話だ。
親父は家族の誰よりも早起きで、夜はオレたちを先に休ませてから湯を使うし、荷役という仕事柄、いつも厚手の服をしっかり着込んでいる。
隠してたのか。
親父は敢えて背中の傷をオレに見せなかった。
でも、それなら、なぜ、こいつは家族も知らない親父の秘密を知っている?
いっそう警戒心を深めたオレに、若い男は意味ありげな笑みを向ける。
その顔に違和感が募った。なんか、引っかかってるのに、それがなんなのかわからないもどかしさだ。
若い男は言った。
「バラカートは君の父親ではないよ」
「あ。そう。それが何か?」
意外なほど衝撃は受けなかった。
だって、そんなこと、もうとっくの昔に気づいてたから。
「きみは本当の父親のことを知りたくないのかい?」
「別に。興味ないね」
「どうして?」
「今さら知ったところでどうなんの? その人、既にオレの人生とは無関係の人でしょ」
強がっているわけではない。それが本心だった。
オレ自身にはどうしようもないところで、これ以上心をかき乱されるのはごめんだ。
男は、少しだけ思案したのち、今度は別の質問をする。
「では、現在はバラカートの妻となっているダリヤのことは?」
オレは眉をひそめる。
「いやに口はばったい言い方するね」
「バラカートとダリヤがきみを連れてこの港町に落ち延びた時、彼らは同士ではあったが夫婦ではなかった」
「同士? どういうこと?」
「ダリヤは手先が器用だろう?」
いきなり、思ってもみた方向に質問が飛んでオレは黙り込む。そんなオレを追い詰めるように、若い男の声がオレの耳を穿つ。
「今はお針子をしているそうだが、彼女が本当に得意なのは刺繍だ。君の本当の母親のドレスも彼女の手による刺繍で美しく彩られていたはずだよ」
ぴくり。
唇の端が震えたのが自分でもわかった。
「さすがに母親のことは気になるかい?」
若い男の視線が近づいてくる。
耳元にささやき声が触れる。
「きみの母親の名はベルタ」
「……っ」
「コラキス王の二番目の妃だった人だよ」
はっとしてオレは顔を上げる。
びっくりするほど青い青い瞳がオレを見つめていた。
それで、オレはようやくさっきから感じていた違和感の正体に気づく。
この瞳に、濃いブラウンの髪はそぐわない。おそらく、染めているのだろう。自身の正体を隠すために。
「……あんた、誰だよ?」
青い青い瞳が微笑んだ。
「俺はガレアのアーデルベルト」
「……ガレア……?」
「俺に会いたくなったらここに連絡をくれ」
ハイともイイエとも答えないうちに小さな紙きれを掌の中にねじ込まれた。
呆然とするオレを大将のダミ声が呼びつける。
「おい! アーセファ! 何やってんだ! これ、運べ!」
「あっ! はい! すみません!」
急いでカウンターに戻り、できた料理を別のテーブルに運ぶ。
気がついた時には、もう、あのふたり組はいなかった。
まるで、夢でも見ているみたいだった。
くそっ。くそっ。くそっ。
オレは小さな紙切れを掌の中にきつく握って通りを急ぐ。
くそっ。くそっ。くそっ。
腹が立つ。頭に来る。いらだちでどうにかなりそうだ。
何が気に入らないって、結局、何もかもがあの青い瞳の男の思うままだってこと。誰かの掌の上で転がされるのがこんなにも面白くないことだったなんて一生知りたくなかった。
青い青い瞳をした若い男にそそのかされたオレは、即、親父とおふくろに問い質した。
『オレの母親がコラキス王妃ベルタだって言ってる人がいるんだけど、それ、ほんとの話?』
我ながら、直截だった。溜めも前置きもなかった。
おふくろは瞬時に泣き崩れた。
そんなおふくろを親父はかばうように抱き寄せる。
なんか、オレが悪者みたいじゃん?
オレは心の中でそうつぶやいたが、あながち、それはまちがいじゃないと思う。
オレの存在が、このふたりの運命を狂わせた。
オレがいなければ、この人たちは祖国を捨てることもなかったのかもしれないのだ。
さすがに、もう、隠せないって思ったんだろう。
親父は重い口を開いた。
それによると、親父はコラキスの騎士。おふくろはコラキス王ゲオルグの二番目の妃ベルタの侍女。
オレの本当の母親ベルタ妃は、オレを死産だったと偽り、ふたりにオレを託した。
なぜ、そんなことをしたのかについては聞くまでもない。
コラキス王ゲオルグは妻殺し子殺しで有名だ。
たしか、現在の王妃は五番目だったはず。
それまでの四人は子供たちも含めすべて非業の死を遂げている。
王妃の命を受け、騎士バラカートと侍女ダリヤは、乳飲み子を連れコラキスを脱出し、やがて、この港町に流れ着いた。
おそらく、親父とおふくろ―――バラカートとダリヤは、始めはただ夫婦を装っていたのだろうが、若い男と女がひとつ屋根の下で暮らしていれば、そこは、まあ、いろいろあるよね。
オレとすぐ下の弟の年が八つも離れているのが、なんとなく、腑に落ちた。
ふたりが偽の夫婦から本物の夫婦になるのにそのくらいの年月がかかったってわけだ。
育てのとはいえ、親のそういう事情、できれば知りたくなかったわ。
おふくろは、オレの足元にひれ伏すと涙ながらに言った。
『お願いでございます。どうぞ、祖国をお救いください』
なんだそれ、って思った。
なんだそれなんだそれなんだそれ。
オレの本当の親のことなんかどうだってよかった。
オレは、今までどおり、この港町で、ただのアーセファとして、これからもずっと生きていくつもりだった。
なのに……。
確かに、コラキスのゲオルグは残虐な王として名高い。
国民のことなんかそっちのけで戦争のことにしか頭にないバカ王だ。
そんな愚王を戴かねばならない国民の苦しみはいかばかりだろう。
わかるけど、でも、なんでオレが責任を負わなきゃならない?
あまりの理不尽さに、腹の中が煮えたぎるようだった。
裏腹に、胸は、しん、と冷えていく。
そうか。オレは、この人たちのことをずっと親だと思ってきたし、今も親だと思ってるけど、親父とおふくろにとって、オレは、最初から最後まで、『息子』じゃなくて『王子さま』だったんだ。
そんなのアリかよ。
でも、オレは何も言えなかった。
何をどうあがいたって、これがオレの現実なのだ。
オレは、無言のまま、今までオレが親父とおふくろだと思っていた人たちに背を向け家を飛び出した。
気がつけば、いつのまにか、オレの足はあの青い青い瞳の若い男に指示された場所に向かっていた。
ヤツの言うなりになるようで癪だが、それ以上に、何かひとこと言ってやらなければ気が済まなかった。
おまえが余計なことを言わなければ、オレは、まだ、バラカートとダリヤの息子でいられたのに。
すべてをぶち壊したのはほかならぬヤツだ。
ヤツが無理やりオレに握らせた紙に描かれていたのは、裏路地にある薄汚れた石造りの建物だった。その半地下にある扉を叩くと、中から出てきたのは今にもあの世から迎えが来そうな老婆だった。
くしゃくしゃになった紙切れを無言で見せたオレに、奥から出てきたいかつい男が目線だけでついてこいと示す。
おとなしく従いはしたものの、オレの腹の中はまだ燃え盛る火の上にかけられた鍋みたいにぐつぐつ言っている。
いかつい男は、港までオレをいざなうと、別の男にオレを引き渡した。
連れていかれたのは、港に停泊する船の一室。
薄暗い船倉で、ランプの光を受け、青い青い瞳が世界で一番貴重な宝石みたいに輝きを放っていた。
オレはそいつから目を離さず口を開く。
「よう。王太子殿下」
ヤツの青い青い瞳に、にこっ、と笑みが浮かんだ。
いやになるくらいさわやかな笑みだった。
さわやか過ぎて、むしろ、うさんくさいわ。
「ごきげんよう。アーセファ王子。俺が誰だか、よくわかったね」
「あんたが自分で名乗ったんだろうが」
病弱な息子が無事大人になれるかどうか危ぶんだガレア王ヘルマンは、国を出奔した弟の子をリンドベルグから呼び寄せ王太子とした。
当時は船乗りたちの間でけっこうな噂になったんだ。
伯爵家の次男が大国ガレアの王太子に大出世したってね。
もちろん、その棚ボタ野郎の名前がアーデルベルトだってことも。
港町の情報、舐めんなよ。
「それで? オレに何をさせたいわけ?」
そう言うと、青い青い瞳に浮かぶ笑みが深くなる。
「聡明なきみには、俺がきみに何を求めているか、もうわかってるんじゃない? アーセファ王子」
「……その呼び方はやめろ」
「どんな名で呼んだところで、きみがあの男の息子であることに変わりはない。あの、残虐で愚かな王のね」
いやな男だ。
何がいやって、たったこれだけの会話でもわかるくらい、頭が切れるところが忌々しい。
オレは思いっきり眉をひそめた。
さっきまでオレのおふくろだったダリヤの声が耳の奥で木霊する。
『お願いでございます。どうぞ、祖国をお救いください』
あんたもかよ。王太子殿下。
オレに王子さまをやらせたいのかよ。
アーデルベルトがオレに望んでいるのは、コラキスのゲオルグ王の子アーセファ王子として、ゲオルグから覇権を奪い取ること。
つまり、クーデターの旗頭になれってことだ。
そして、ゲオルグから王位を簒奪したのちは、コラキスの内政を安定に導き、各国との関係の正常化を図ること。
あ。それって、王子さまじゃなくて王さまの仕事じゃん。
うえ。
想像しただけで、吐き気がするわ。
「あんたにオレの力なんか必要ないだろ」
オレはしょっぱい顔をさらにしょっぱくして言う。
「あんただったら、コラキス一国を焦土にするくらいわけないと思うけど」
ガレアは大国だ。現在の国王は平和主義者のようだが、それでも、ガレアがいまだ強大な軍事力を有していることは皆の知るところだ。
もっと言うなら、こいつは元々リンドベルグの将軍家の血筋でもある。かなりな剣の使い手だって噂だし、ガレアの王太子になってなかったら、リンドベルグでひとかどの武人になっていたのはまちがいない。
「こんなとこで油売ってないでさ、とっととコラキスに行って、自分の手でゲオルグとかいうおっさんの首を切り落とせばいいじゃん」
「それもいいね」
ガレアの王太子殿下は喉の奥で低く笑った。
本気でそう思ってそうな、どこか楽しげな声だった。
青い青い瞳がまばゆく光る。
だが、まぶしければまぶしいほど、その光が生み出す影もまた濃くなることも、オレだって知らないわけじゃない。
「……でも」
ヤツが言った。
獲物を目にした猛獣のような、どこかうっとりとした声だった。
「でもね。アーセファ王子。それでは、だめなんだ」
「……だめって、何がだよ?」
「欲しいものがある」
瞬間、青い青い瞳に浮かび上がったものをオレは見逃さなかった。
それは、深い官能。隠しても隠しても、どこからかとろりと溢れ出すような陶酔。
「戦を挑んでゲオルグの首を落とすことは容易い。だが、その道を選べば、俺の欲しいものの輝きは損なわれるかもしれない。もしも、そうなったら、俺は一生俺を許すことはできないだろう。俺は何があっても完全な形で手に入れたい。そのためなら、こんな回りくどいことだって、いくらでもするのさ」
ゾク。
寒気がした。
ゾク。ゾク。
背筋が震える。
恐ろしいと思った。
このさわやかな笑顔の下にはおぞましいほどの執着が隠されている。
こいつはそういう男なのだ。
目的のためなら手段を選ばない。
だから、大国の王太子ともあろうものが、このような粗末ななりをして、この港町までやってきた。
なんとしてでも、自分の望みを叶える。
その執念が、オレさえ知らなかったオレの出生の秘密にヤツを導いた。
「きみにも、いずれ、わかる日がくる。たぶん、ね」
「……」
「その時は、俺がきみの手助けをしよう」
思わずうなずきそうになった自分を、オレは自分で引き留める。
ヤバいヤバい。
うっかりその気になりかけていた。
「それがオレへの報酬ってわけ?」
「そう受け取ってもらってもかまわない、かな」
「でも、それってオレになんの得があんの?」
「王さまになれるよ?」
「興味ないね」
ほんと。心底どうでもいいわ。
しかし、ヤツはしつこかった。
そのよく回る頭と口の回転を止めるには、いったい、どうすればいいんだ?
「きみが俺に協力してくれれば、ことはコラキスの内乱で済ませられる。ガレアの軍事力を以てコラキスを地図から消すよりはよほど平和的だろう?」
「オレには関係ない話だ」
「コラキスの国民だって喜ぶよ?」
「オレは別にうれしくもなんともない」
「そう? でも、きみの育ての親は喜ぶんじゃない?」
まるで見てきたようなことを言う。
ムッとして黙り込むオレに、アーデルベルトはやけにさわやかに笑いかけた。
だが、このさわやかさの裏には、もっと別の重苦しいものが潜んでいることを、オレはもう知ってしまった。
「大丈夫。きみはやるよ」
それは、予言を超えて、既に断言だった。
「だってさ、国を変えるんだよ? ゲオルグの圧制に困窮する国民をきみが救うんだ。きみは英雄になる。それはきみにしかできないことだ。そう考えたら、わくわくしないかい?」
そそのかされている。
この港町で給仕として一生を終えるか。
それとも、ここから飛び出し、救国の王子として生きるのか。
おまえはそのどちらを選ぶのかと選択を突きつけられている。
「オレは……」
気がつけば、胸の奥が熱くなっていた。
オレにしかできないことがある。
それが魔法の言葉のようにオレの頭の中を飛び回っている。
コラキスの国民は疲弊しきっている。これ以上持ちこたえられないところまで落ち切っているのを、恐怖政治でなんとかしのいでいる状態だ。
できるものならゲオルグを粛清したいと考えている者は少なくないはずだが、彼らが実行に至らない理由はいくつか考えられる。
たとえば、失敗した時は誰が責任を取るのかとか、もし、仮にうまくいったとして政変後は誰がリーダーになるのかとか、リーダーになったとしても王位は継ぐのかとか、継いだ場合、その誰かは各国から簒奪者のそしりを受けないかとか……。
でも、これって、オレがいれば、全部、一発で解決するんだよな。
なんたって、オレは王家の血を引く正当な後継者なんだから。
確かに、ほかの誰にもできないことだ。たとえ、ぽっと出の王子さまでも、オレには大義名分がある。大義名分さえもない政変は暴力と変わらない。
それに……。
今まで、オレの世界はこの港町だった。ここだけがオレの居場所だった。
でも、心のどこかでは、いつも、あの海の向こうには何があるんだろうって考えていたような気がする。
もしも、目の前のこの青い青い瞳をした男の手を取れば、海の向こうに広がる、もっと、もっと、広いところへ行けるかもしれない。
そして、そこでは、いまだ見たことも触れたこともないたくさんのものがオレを待っている。
オレの目の前で悪魔が笑っていた。
「さあ。どうする?」
オレは―――。
「……か…」
軽やかな声が耳の奥を揺らした。
「……殿下。アーセファ殿下」
鈴を転がすような、とはこういう声のことを言うのだろう。
ざわめきの中でも、すっと心の中に忍び入ってくる、そんな不思議な声の持ち主は、ちょっと不満顔でオレをにらんでいる。
オレは笑ってその声の主を見返した。
「ああ。失礼」
つくろったわけではない。その少し青みがかった紫の瞳を見ると、なぜか、自然とオレの口元に微笑みが浮かんでくるのだ。
「ああ、失礼、ではありません。さっきから何度もお名前をお呼びしているのに応えてくださらないんですもの」
オレの声色をまね、かわいらしく唇を尖らせているこのパゴニアの姫ぎみは、なんと、オレの婚約者さまである。
いや、まあ、厳密には、まだ『候補』だけど。
ゆるくカールした薄い金色の髪に、すきとおるように白い肌。
青みがかった紫の瞳はぱっちりと大きく、ふっくらした頬には笑うと片えくぼができる。
だが、何よりも彼女の魅力を大きく形作っているのは、その純粋な心根だろう。
穢れを知らぬシャルロッテ。
オレには、ただひたすらにまぶしい。
オレは、思わず目を細めながら、記憶の中を漂っていた意識を呼び戻し、目の前の愛らしい姫ぎみに向き直る。
「すみません。おふたりがあまりにもお幸せそうなので、つい、見入ってしまいました」
ちらりと向けた視線の先では、金色の髪に青い青い瞳をした若い男が、大勢の人に囲まれてさわやかな笑顔を振りまいている。
うっかり苦笑しそうなったのをこらえるのに苦労した。
今日のアーデルベルトはおめでたい席に相応しい華やかな装いだ。ガレア王家の色である青の礼装をきちっと着こなし、一部の隙もない王太子さまぶりである。
(初めて会った時とは大違いだな)
あの時のアーデルベルトは、髪を濃いブラウンに染め、服装も市井の商人ふうだった。特別おかしな身なりというわけでもなかったのに、やはり、しっくりこなかったのは、あれが本来のヤツの姿ではなかったからなのだろう。
王太子然とした姿には、あの時覚えたような違和感はかけらもなかった。
オレのいささか皮肉めいた感情など気づく気配もなく、純真な姫は目を輝かせた。
「ええ。ほんとうに、お義兄さまもお姉さまもお幸せそう」
お姉さまというのは、シャルロッテの実の姉で、前ガレア王の後室だった女性だ。
名をユーディットという。
パゴニアの鉱山に目をつけたコラキス王ゲオルグに求婚され、それから逃れるために、祖父と孫ほどにも年齢の違う前のガレア王に嫁いだ。
ゲオルグと結婚するということは、つまり、死ぬことと同じだ。
生き延びるためにじいさんの後添いになったからって、誰が彼女を責められるだろうか。
なのに、前王の死後もガレアに残った彼女のことを、ガレアの貴族たちは『人質』と呼んで謗ったそうだ。
オレも、まあ、人のことは言えないが、波乱万丈の半生を過ごしてきたなかなかに気の毒な人なんじゃないかと思う。
でも、何より気の毒だと思うのは……。
オレは、ヤツの隣で、赤子を抱いて、やさしげに微笑んでいる彼女に同情の目を向ける。
前王の未亡人ユーディットは、ガレアの王宮にとどまっている間に、リンドベルグから王太子になるべくやってきたヤツと出会った。
そして、ヤツに見初められ、今やガレアの王太子妃である。
先日、第一子となる王子を出産。
今日はその祝いの席だ。
オレも、シャルロッテ姫も、その祝いのために、遠いガレアまではせ参じたというわけだ。
オレはユーディット妃の横でさわやかな笑顔を浮かべているヤツを見て目をすがめる。
一点の曇りもない王太子顔の下の本性を知る者は多くないだろう。
おそらくは、いつもヤツのそば近く侍ってる側近―――マンフレートといったか―――だって、よくわかってないんじゃないだろうか。
ヤツを取り囲んでいる貴族たちは口々に「世継ぎの誕生だ。ほんとうにめでたい」だの「これでガレアも安泰だ」だの言ってるけど、オレは知ってる。
ヤツはあの新生児を将来のガレア王にしようなんてこれっぽっちも考えていない。いずれ、現在の王の実子に王位を譲る気でいる。
ヤツの従弟にあたるフェリクスは、線は細いが、頭のできはよさそうだ。何より、ヤツよりずっと善良そうに見えるし、むしろ、フェリクスがガレア王になったほうが、国民にとっていいんじゃないかとさえ思うことがある。
だって、ヤツにとってたいせつなのはユーディット妃だけ。
ヤツの頭にあるのはユーディット妃のことばかり。
あの時、欲しいものがあると言ったヤツに、オレは震撼した。その執着に慄いた。
まさか、想像すべくもない。
ヤツが欲しいものとは、金でも、権力でも、名声でもなかった。
ヤツにとっては、国王の椅子よりも、ただ一人の女性の心のほうがはるかに重要なのだ。
コラキスとの戦争を回避したのも、ユーディット妃に好戦的な男だと思われたくない一心から。
いったい、どんだけええかっこしいなんだ。
ほんと。びっくりだよ。びっくりし過ぎて、あきれる。
あの時それを知っていたら、オレは……。
うん。それでも、やっぱり、ヤツの口車に乗ったのかもしれないな。
オレは実の父親であるゲオルグを屠ったことを後悔していない。実際に手を下したのはヤツの五番目の妃だが、計画したのも、必要な毒薬を入手したのも、オレとヤツだ。
ゲオルグは死んだほうがいいヤツだった。国民のためにも。本人のためにも。
オレがヤツの息子だっていうなら、ヤツの息の根を止めるのはオレしかいない。
それがゲオルグの息子としてこの世に生まれてきたオレの義務だ。
かすかに湧き上がってきた感傷を振り切り、オレは、姉の幸せをまるで自分のことのように喜んでいるシャルロッテ姫を微笑ましく見つめる。
ヤツの声が耳の奥で木霊した。
『きみにも、いずれ、わかる日がくる。たぶん、ね』
オレは、ヤツほど腹黒くも厚かましくもなれない。執着心も薄い。
ヤツに比べたら、自分で自分がつまんなくなるほど普通だ。
そんなオレにも、何をおいても欲しいと思えるものができるだろうか?
『その時は、俺がきみの手助けをしよう』
少しだけ楽しい気分になった。
そうだな。
その時が来たら、今度はオレがヤツを精いっぱいこきつかってやろう。
それがいい。そうしよう。
ヤツは腹黒くずる賢い。
なかなか首を縦に振ってくれない初心なお姫さまの心を射止める方法くらい、いくらでもひねり出してくれるだろう。
オレは笑ってシャルロッテ姫に腕を差し出す。
シャルロッテ姫は、オレを上目遣いでそっと見上げたあと、頬を染め、そして……。
その小さな手を遠慮がちにオレの腕に預けた。
おしまい♪
王太子殿下は籠の鳥の姫と愛おしき逢瀬を重ねる~やり直しの花嫁~ ― 2022年10月28日 13:33
やり直しの花嫁
大国ガレアの国王ヘルマンは、病弱な息子の代わりに、甥であるアーデルベルトを他国から呼び寄せ、王太子とした。
思いがけず大国の王太子となったアーデルベルトは、ある朝、王宮の森の中にひっそりと建つ館で、ひとりの乙女と出会う。
一目で恋に落ちたアーデルベルトだったが、その乙女ユーディットは愛してはいけない人だった……。
てな感じで始まるお話です。
愛し合いながらも、互いの立場がそれを許さない。秘密の恋に、ユーディットはどうしようもなく溺れていきますが、その一方で、やがて訪れるであろう恋の終わりにおびえています。
突然の別れの日、ユーディットが選んだのは……。そして、その時、アーデルベルトは……。
約一名を除き、悪い人は出てきません。
登場人物はほぼほぼ穏やかな人ばかりで、戦闘シーン等もナシです。
最後はもちろんハッピーエンドなので、安心してお読みいただければと思います。
アーデルベルトは、姫野のお話に出てくるお相手さまの中では、珍しくヤンデレ度がちょっと高めかなと思います。
狙った獲物は逃がさない的な?
そこいらあたりをもうちょっと書けたらよかったのですが、なんせ、彼はユーディットの前では、そういうところをあまり見せません(かっこつけやがってー)。
ユーディット目線で書いている以上、ユーディットの知らないことは書けないし、第一彼の権謀術数家ぶりを詳しく書いていたらTLじゃなくなっちゃう……。
お話書くって難しいですね……。
ありがたいことに、カトーナオさまが書いてくださったアーデルベルトが、なんか、優等生面してほんのりヤンデレ感漂ってて(そう思うのは姫野だけ?)なんだか、とても、救われた気持ちになりました。
やはり、イラストさまは偉大です。
本来でしたら、約一名の悪い人や、彼を取り巻く人々にもいろいろなドラマはあるのですが、とりあえず、それは横に置いといて、アーデルベルトとユーディットの甘くせつない恋の行方を、ライラックの香りに包まれながら、見守ってやっていただけたらと思います。
『愛よりも深く』のSSです。 ― 2022年02月12日 13:51
ソーニャ文庫さまは今月で9周年だそうです。
おめでとうございますvパチパチv
先日は拙作『愛よりも深く』も9周年キャンペーンに参加させていただきました。
お祝いっていいですね。
末席ながらお祝いの席に名前を連ねさせていただいて、姫野も幸せです。
『愛よりも深く』についてはちょっとだけ心残りもあったので、この機会に編集部さまにお許しをいただいてその後の短いお話を書いてみました。
ネタバレ有りで本編読了後の方向けですが、よかったら、読んでみてやってください。
縦書きがお好みの方はTwitterに縦書き画像があります。
文字数はおおよそ9,000字程度です。
青き手のアデル
珍しく蒸し暑い夜だった。
ムッとするような空気と、それにも勝る人いきれが王宮を満たしている。
どこからか、漂ってくるのは花の香り。
遠い南国を思わせる甘く官能的なそれさえ、ねっとりと身体にまとわりついてくるようで、ひどく息苦しい。
アデルは、顔では王の母親らしい穏やかな微笑みを作りながら、こっそりと小さなため息をつく。
王宮では、夏の夜祭りが開かれている。
昔、日照りが何日も何日も続いた年に、生命を賭して祈りを捧げた聖人に感謝する催しだ。
祈りを捧げる暇があるなら、井戸の一つも掘ればいい。そのほうがよほど人々の役に立つだろうに。
(祈りなんか、お腹の足しにもならないわ)
もしも、今度日照りが続くようなことがあれば、王には祈りではなく井戸のほうを箴言しようと心に決めながら、アデルは傍らに目を向ける。
生まれ落ちると同時に王となった我が子は七歳になった。
今は、小さな身体には似合わぬ大きな玉座に行儀よく座り、ひっきりなしに訪れる列席者を生真面目な顔で迎えている。
我が子の名はダリル。
ギデオンと出会った日、別れたきりの弟と同じ名前を付けたのは、もう二度と会うことのない弟への、せめてもの償いだった。
あの子のことは一日たりとも忘れたことはない。
無知で愚かだった自分には、弟を守ってやることはできなかった。
でも、今は……。
アデルは、藍色の瞳だけを動かして、ちらりとギデオンの様子を窺った。
宰相の地位を得たギデオンは、玉座のすぐそばに控えている。
その灰色の瞳は、今もあの頃と同じで、冷徹なまでに静謐だ。
ひとりではないと思えた。
自分にはギデオンがいる。
たとえ、二度とその肌の熱さに触れることはなくても。
アデルは、傍らの我が子に視線を戻すと、周囲には聞こえぬようひそめた声でダリルをたしなめる。
「陛下。背中が曲がっていますよ」
昔、ギデオンに行儀作法を仕込まれていた頃、アデルもよくそう言ってギデオンに叱られた。
今は同じことをアデルがダリルにしている。
アデルの言葉が終わらないうちに、ダリルはその薔薇色のまろい頬を引き締めピンと背を伸ばした。
アデルの口元に浮かんだのは、装ったものではない本物の笑み。
誰に似たのか、賢い子だ。
まだ幼いながらも、自分が王であることを心得ていて、精いっぱいそれに相応しくあろうとしている。
健気だった。その素直さがいとおしかった。
それだけに、よりいっそう哀れでもある。
(かわいそうに……)
もしも、王の子として生まれることがなければ、もっと年相応の子供らしい生き方ができただろうに。
だが、仕方がない。それがこの子の運命だったのだ。
アデルがそうであったように、この子も抗えぬ大きな流れの中を生きている。
だからこそ、厳しい母でいなければならないのだとアデルは自身に言い聞かせた。
ダリルを、少なくともダリルの伯父である―――あるいは、一方は父かもしれない―――あの二人の愚かな男たちのような大人に育ててはならない。
ギデオンに教えられたことは、何度もアデルの身を助けてくれた。それがいつかダリルを救う日も来るだろう。
せめて、とアデルは思う。
(せめて、あとでたくさん褒めてあげよう)
立派でしたよと、あなたはお母さまの誇りですと、この手でしっかりと抱き締めてあげよう。
先王の四人の子供たちは親に顧みられることなく成長したという。それが彼らをあのような悲劇に導いたのであれば、自分は繰り返してはならない。
この子には父親はいないけれど、それを補って余りあるほどの母の愛を注いでいくことが、この呪われた運命の中へダリルを生み落としてしまったアデルの務めだ。
うっそりとした葛藤を胸の奥深く飲み込み、アデルは再び笑顔を作った。
ダリルとアデルの前では、次の客がひざまずき深々と頭を下げている。
客は東方からやってきた商人だそうだ。
若くはないが年寄りでもない。その壮年の男は、頭にターバンを巻き、東方ふうのゆったりした装束に身を包んでいる。
すぐ後ろには息子だという青年を従えていた。父と同じように頭にターバンを巻いてはいるが、こちらは身体に寄り添うぴったりした服を身に着け、大ぶりな腰帯を巻いている。
父親のほうが頭を下げたまま口を開いた。
「商人のアイマンにございます。国王陛下におかれましては、ご機嫌麗しく執着至極にございます」
商人らしいそつのない穏やかな声だった。国王に目通りがかなうくらいだから、おそらく、かなり裕福な商人なのだろう。
「お顔を上げて楽になさってください」
ダリルが幼い声で言う。
ダリルには、たとえ相手が貴族でなくても丁寧な言葉を心がけるよう厳しく教えた。
『相手の身分が低いからといって、侮り、見下すのは愚かなことです。どんな人に対しても、誠実でありなさい。そして、すべての国民を国王として愛しなさい』
今のところ、ダリルはその母の教えをきちんと守っている。
アイマンが感心したような笑みを浮かべて顔を上げた。まるで、孫を見守るかのようなやさしい眼差しだ。
「お気遣いありがとうございます。このアイマン、陛下のあたたかいお心づかいに感激しております」
「そちらはご子息ですか?」
「はい。ハドルと申します。ハドル」
父親に促され、ハドルと呼ばれた息子が顔を上げる。
(え……?)
アデルは思わず息を飲んだ。
似ている。
今、アデルの前でかしずいている青年は、生き別れたままの弟ダリルに、あまりにもよく似ている。
ハドルの、目元も、口元も、顎の形でさえ、もし弟が生き永らえていたら、きっと、そうなっているだろうと、アデルが思い描いたそのままだった。
(もしかして、ダリルなの……?)
いや。そんなはずはない。ダリルは死んだはず。
ギデオンだってそう言っていた。
もちろん、ダリルの死体を確認したわけではないが、あの時、ダリルはお腹が痛いとひどく苦しんでいた。
病気になった奴隷など、誰も手当はしてくれない。
ましてや、やっと十歳になったばかりの子供。ダリルがどうなるか、奴隷であったアデルには容易く想像がついた。
(生きているはずがないわ)
わかっている。
(他人の空似よ)
なのに、違うと誰かが叫んでいる。
『この子はダリルよ! 生き別れになった、私の弟よ! ダリルは生きていたの! 生きていたのよ!』
眩暈がした。
心臓は今にも壊れそうなほどに、ドッ、ドッ、と激しく鼓動を刻んでいる。
浅く喘ぐ吐息を強張る微笑みの下に押し隠し、アデルは恐る恐る目の前の青年に目を向けた。
ハドルは、身体つきこそ小柄だったが、血色がよく、四肢は若者らしく伸びやかで、すこぶる健康そうだ。
一方、弟のダリルは、身体が小さかったのはもちろん、手も足も骨が浮き出るほどにやせ細っていた。ろくに食べるものもなく、毎日厳しい労働を続けざるをえなかったのだから、まともな成長など望むべくもなかったのだ。
髪の色は、ダリルが薄茶だったのに対して、ハドルのほうはいかにも東方人らしい濃い鳶色だ。
でも、髪なんていくらでも染められる。
だったら、目の色は?
目の色ならば、簡単には変えられないはず。
ダリルの目はアデルと同じだ。
昔、よく似ていると皆に言われた深い藍色。
そして、ハドルも――――。
誰にもわからぬようこそりと深い息を細く細く吐き出したあと、アデルは震えながら飾り袖の下で左の指を一本だけ立てた。
忘れもしない。
これは、ふたりだけの合図。
声を出すことさえ禁じられていたあのウォードの農場で、せめてもの心の慰めにとふたりで決めたルール。
アデルが左手の指を一本だけ立てる。
それを見たダリルは、左手の指を二本立ててアデルに返事を返す。
たったそれだけでも、心は満たされた。自分は決して一人じゃないのだ。その思いがつらいだけの作業の中アデルを強くしていった。
じっと見守るアデルの前で、ハドルがさりげなく自身の左の指を二本立てた。
(ああ……!)
歓喜が溢れた。
この青年はダリルだ。まちがいなく自分の弟だ。
よくぞ、生きていてくれた。
よくぞ、会いに来てくれた。
ダリルが、どういう経緯で商人の息子となりハドルと名乗ることになったのか、そして、なぜアデルの境遇を知り得たのか、わからないことはたくさんある。
でも、今は、再びこうして生きて相まみえたことが、ただ、ただ、うれしくてたまらない。
ダリルはどう思ったのだろう。
アデルが指で合図を送った時、その藍色の瞳がわずかに細く歪んだような気がしたが、それも、一瞬のこと。束の間の変化は、すぐに浮かべられた若者らしい溌剌とした笑みの下に消えていってしまった。
「本日は陛下に献上したいものがございまして、御前にまかりこしてございます」
アイマンがそう言って目配せすると、ハドルは手にしていた大きな荷物の上から錦の覆いを取り去る。
現れたのは鳥籠だ。鳥籠の中の止まり木には、見たこともないほど鮮やかな青い色をした大きな鳥が一羽だけ止まっている。
傍らのダリルは一瞬でその鳥に心を奪われたようだった。玉座から身を乗り出すようにして、その青い鳥を見つめている。
ハドルは鳥籠を捧げ持つとダリルに一歩近づいた。
「陛下。この鳥は人の言葉を話す鳥でございます」
「話す? ほんとうに?」
「はい。教えれば、陛下のお名前もお呼びするようになるでしょう」
ダリルは、ちょっとだけ考えて、それから、籠の中の鳥に向かって話しかける。
「僕は、ダリル。呼んでごらん。ダ・リ・ル。ダリルだよ」
青い鳥は、わずかの間戸惑うように左右に視線を向けたあと、おもむろに、広間じゅうに響き渡るような声を上げる。
「ダリル!」
「そうだよ。僕はダリルだよ」
「ダリル! ダリル! アイシテル!」
ダリルの目が輝いた。
「すごい! なんて賢い鳥なんだ!」
すっかり夢中になっているダリルに、アイマンが穏やかな声で語りかけた。
「陛下。この鳥はまだ子供です」
「子供? こんなに大きいのに?」
「はい。とても長生きをする鳥なのですよ。人間と同じくらい生きると言われています」
ダリルは籠の中をじっと見つめる。
青い鳥もまたダリルを見つめ返している。
「この鳥は、一生の間、ただ一つの愛に生きるとも言われています。もし、陛下がこの鳥をかわいがってくだされば、この鳥にとって、陛下が唯一無二の愛を捧げる相手となりましょう」
アイマンの言葉に、ダリルは生真面目な顔をしてうなずいた。
周囲からはひそひそと陰口が聞こえてくる。
『よく言うわ。どうせ、陛下のお名を呼ぶよう、予め、あの鳥を仕込んでいたくせに』
『鳥に、愛している、などと言わせるとは、とんだ不敬だ』
『しょせん、卑しき商人風情の考えることなどその程度。陛下が子供だと思って侮っているのだろう』
確かに、そうなのかもしれない。
『ダリル。愛してる』
あの青い鳥にそう話すよう仕込んだのは、商人としてのアイマンの下心なのかも。
でも、アデルは思わずにはいられなかった。
『ダリル。愛してる』
あの鳥がそう囀るたびに、弟はいったいどういう気持ちでいたのだろうかと。
***
ひっきりなしに続いた客人たちの列がようやく途絶えると、アデルは護衛の兵士たちにダリルを任せ、庭へと足を向けた。
少しの間でいいから、ひとりになりたかった。ひとりになって、弟のことを考えたかった。
王であるダリルについている護衛たちは、その忠誠心も、剣士としての腕前も、誰ひとりとして信用できない者はいなかった。
護衛たちだけではない。
ダリルに直接目通りする者は、文官も、侍従も、すべてギデオンが厳選した者たちばかりだ。
ギデオンの復讐は今でも続いている。
自身を蔑ろにした者たちとは違う生き方をすることで、彼は彼の復讐を完遂しようとしている。
ギデオンがいつでもアデルとダリルを守ってくれるのは、あるいは、自分たち母子がギデオンの復讐に必要だからなのかもしれない。
だとしても、アデルとアデルの息子のダリルは彼の庇護の下でこれまでぬくぬくと生きてくることができた。
だが、弟のダリルはいったいどんな人生を送ってきたのだろう。
弟のことを思うと胸が痛む。何もしてやれなかった自分が、歯がゆく、もどかしい。
「ああ……」
嗚咽がこみ上げてくる。それを必死になってこらえながら、両手で顔を覆う。
夜気に触れ、花の香りがいっそう強く立ち上った。
むせかえるような甘い甘い官能的な香り。
息ができなくなる。
頭がくらくらした。
アデルはふらつく足で庭園の片隅に歩み寄る。
この庭園には人工的な洞窟が作られていた。
盛夏の日中、強い陽射しを避けて休むための簡素なものだが、そこでなら誰にも見咎められずしばらく休むことができるはずだ。
やっとの思いで洞窟にたどり着き、アデルは石造りのベンチに倒れ込んだ。
唇から深い深い息が溢れた。
ダリル。ダリル。
死んだと思っていたあの子が生きていた。
奴隷だったアデルにとって、あの子はたったひとりの家族だった。アデルがまだ青い手をしていた頃、アデルには弟のダリルしかいなかった。
「ダリル……」
思わずつぶやいたその時、ふいに、洞窟の奥で何かの気配がした。
「誰……?」
アデルは、身を起こし、暗闇に向かって誰何する。
「誰かいるの……?」
ここは王家の庭だ。今宵は夜祭で大勢の客が集まってはいるが、この庭に勝手に足を踏み入れることは禁じられている。
もしかして、小動物か何かが迷い込んだのだろうか。
訝しみつつ目をこらしていると、再び空気が揺れた。
暗闇の中から現れたのは、東方ふうの服に身を包んだ青年―――。
「ダリル……」
アデルは迷うことなく弟の名を呼んだ。
「ダリル……。あなた、生きていたのね……」
ダリルは、一言も発することなく、アデルの近くまで歩み寄ると、すっかりたくましくなった両手でアデルを抱き締める。
「今はハドルです。王太后陛下」
アデルは、自分よりも随分背の高くなった弟の胸に額を擦りつけ、首を横に振った。
「いいえ。あなたはダリルよ。わたしの弟のダリル。死んだものだと思っていた。もう、すっかりあきらめていたの。でも、生きていたのね」
「……はい」
「教えてちょうだい。ダリルはどうしてハドルになったの?」
「それは……」
「言いたくないのなら言わなくていいのよ」
アデルだってダリルに言えないことはたくさんある。
「ただ、ダリルがとてもつらい思いをしてきたのではないかと、それだけが気になって……」
ダリルの藍色の瞳にうっすらと笑みが浮かんだ。
「あなたは昔と少しも変わらない。いつでも俺のことばかり。あなただって、とてもつらい思いをしてきたのではないですか?」
卑しき奴隷が王の母になったのだ。
普通ではとても考えられないことが起こったのだし、アデル自身もおぞましいほどの悪意や危険にさらされた。
でも、今となっては、全部過ぎ去ったこと。
「いいえ……。つらいことなんて、何もなかったわ」
アデルは言った。
「私は運命に流されてここまで漂いついただけ」
ギデオンに言われるがまま、復讐の片棒を担いだだけ。
「俺もです」
ダリルが答える。
「俺も、つらいことなど何もありませんでした」
「ほんとうに?」
「はい。あのあと、俺は森に捨てられたんです」
「捨てられた?」
「当時、俺はひどい熱を出していたからはっきりとは覚えていないんですけど、離れ離れになってすぐのことだったと思います」
「そんな……!」
アデルは驚いて声を上げる。
ギデオンはたぶん売られたのではないかと言っていたが、ダリルはそれ以上のひどい目に遭っていたのだ。
「でも、俺はとても幸運だったんです」
ダリルの声は静かだった。
「道端に捨てられていた俺はすぐに拾われて、手当を受けることができたんです」
「そう……。そうなのね……」
「俺を拾ってくれたのは旅の商人でした。その商人は数か月前に俺と同じ年頃のひとり息子を亡くしたばかりで、俺のことを放っておくことができなかったそうです。商人は、俺を家に連れ帰り、養子としました。商人の妻も息子が帰ってきたようだと言って俺をたいそうかわいがってくれました」
「それがあのアイマンという商人なの?」
「そうです。ハドルというのは、亡くなったアイマンの息子の名前です。俺は、今、ハドルとしてハドルの人生を生きています。きっと、それが俺の運命だったのでしょう」
ダリルの人生は、おそらく、かいつまんで語られた言葉よりも、もっと、ずっと、過酷なものであったはずだ。
言葉の奥に滲むものがアデルにそれを教えてくれる。
「いいのよ。どんな運命でも」
アデルはダリルの頬を両手で包みそっと微笑みかける。
「生きて再びこうして会えた。それ以上の喜びはないもの」
常に冷静さを失わなかったダリルの瞳に、一瞬、強い感情が浮かんだ。
「おねえちゃん」
強い力で抱き締められる。
「会いたかった。ずっと、ずっと、会いたくてたまらなかった」
「ダリル……」
「国王陛下の戴冠式のパレードの時、城下でおねえちゃんの姿を見たんだ。俺にはすぐにわかった。あれはおねえちゃんだって。どうしてこんなことになったのかはわからないけど、でも、おねえちゃんが生きててよかったって、生きてるなら、いつか、絶対に会いに行こうって、今夜、やっと、その夢が叶ったんだ」
「ごめんね」
そう言いながら、アデルはダリルにも負けないほどの強い力でダリルを抱き締め返す。
「守ってあげられなくて、ごめんね」
ダリルが首を横に振る。
「いいんだ。俺のことは。それよりも、あの子を守ってあげて」
「あの子?」
「もうひとりのダリル。あの子は俺の甥だよね? 俺にとって、おねえちゃんとあの子は、たったふたりだけの家族だから」
もう声にはならなかった。
アデルは無言のまま何度も何度もうなずく。
ダリルも何も言わなかった。
ただ、すがりつくようにダリルのぬくもりを感じていると、ふいに、ふたりの上に影が差した。
誰かが洞窟の入口に立ったのだ。
「時間だ」
簡潔な声は、聞き間違えようもないギデオンのそれ。
ダリルはアデルの身体をそっと離す。
「もう行くよ」
アデルは離れていこうとする弟に必死で追いすがった。
「また会える?」
「生きていれば、きっと、いつかは、また会えるよ」
「手紙は?」
「手紙は危険だよ。どこで誰に見られるかわからない」
ダリルの言うことはもっともだ。
「そうね……。そのとおりね……」
がっくりと肩を落としたアデルに一瞬せつなげな目を向けたあと、ダリルはそれを振り切るようにしてギデオンに視線を移した。
「宰相閣下には特別なご配慮をいただきありがとうございました。お陰で今宵は積年の望みが叶いました」
ギデオンは何も答えない。ただ、いつもと変わらぬ静謐な眼差しがダリルを見下ろしているばかりだ。
ダリルはひるむことなくその眼差しを見据えて言った。
「俺は宰相閣下と王太后陛下の間に何があったのか知らないし、たぶん、それは知らないほうがいいってこともわかってる。でも、一つだけ、宰相閣下に聞きたいことがあるんだ」
ギデオンはやはり何も答えなかった。
それを『是』と捉えて、ダリルが言葉を募らせる。
「姉と俺をあの農場主から買ったあと、俺を森に捨てに行ったのはあなたですよね」
「……」
「あなたは俺に言った。生きることを決してあきらめるなと、生きてさえいれば、いつか、望みが叶う日が訪れるかもしれないと、熱に浮かされる俺の耳元で何度も繰り返した。あなたのその言葉に救われた日もあった。今、ここで、お礼を申し上げたい」
それが最後だった。
ダリルの背中が消えていく。
闇に紛れて見えなくなる。
アデルはしばし呆然としてそれを見送っていた。
身体からごっそりと力が抜け落ちたようだった。
まるで、長い夢から醒めたような心地だ。
(いいえ……。夢なんかではないわ……)
掌にはまだダリルのぬくもりが残っている。
アデルは、ゆっくりと立ち上がると、ギデオンに眼差しを向けた。
「あなたがあの子の手引きをしたの?」
ギデオンは、自然な仕草でアデルに手を貸し、なんでもないことのように答える。
「王太后陛下の秘密を知っていると言われた。バラされるわけにもいかないので、仕方なく、夜祭で国王陛下に謁見できるよう取り計らった。それだけだ」
ダリルはギデオンのことを覚えていた。だから、ギデオンに接触した。
たぶん、ギデオンにもハドルの正体がわかったのだろう。
ダリルであれば、アデルに会わせても支障がないと判断したから、この庭園でふたりがこっそりと会えるよう画策したに違いない。
「ダリルは売られたって言ってたのに。あれはうそだったのね」
「そんなことを言ったかな」
「とぼけないで」
「とぼけてなどいない。彼だって、言ってただろう。熱があって、その時のことはよく覚えていないと。きっと、何か勘違いをしているんだろう」
(うそつき)
アデルは心の中で罵った。
ダリルが語ったことは具体的で、高熱が見せた妄想だったとはとても思えなかった。
だが、どんなに問い詰めたってギデオンはほんとうのことは言わないだろう。
あるいは、とアデルは思う。
あるいは、ギデオンはほんとうはアイマンがそこを通りがかることを知っていたのではないだろうか?
ひとり息子を亡くしたばかりのアイマンが息子と同じ年頃のダリルを見捨てることはないだろうと見越して、アイマンに容易に気づかれるようにダリルを捨てた。
もう一歩踏み込んで、アイマンにダリルを直接託した可能性だってある。
オーウェンがダリルのことを気にしたことなど一度だってあるまいが、それでも、生きていると知れれば、きっと、殺される。
東方の異国であれば、オーウェンの目もまず届くまい。
こんな時、アデルはふと思うのだ。
(もしかして、これは愛なのかしら?)
ギデオンはいつでもアデルが望むとおりに取り計らってくれる。アデルが困らぬよう予め道を作って用意してくれる。
まるで、全身全霊で尽くされているようだ。
たったひとかけらの愛もない相手に、人はそこまでできるものだろうか?
だが、アデルはすぐにその思いをどこかへ追いやった。
(どちらでもいいわ)
愛されてようがいまいが、もう、アデルはギデオンからは離れられない。
自分たちはそういうふたりなのだ。
「行きましょう。陛下が心配なさっているかもしれないわ」
息子のダリルはとてもしっかりした子供ではあるけれど、まだ七歳だ。時には母の存在を恋しがることもある。
ゆっくりと洞窟を出て、王宮へと向かう。
夜祭りは酣のようだ。
蒸し暑い空気に乗って人いきれがここまで届いてくる。
それに混じって、鳥の声が聞こえてきた。
一生に、ただ一つの愛しか持たない鳥が高らかに囀る。
『ダリル。アイシテル』
アデルは、心の中で、その言葉をそっと繰り返した。
珍しく蒸し暑い夜だった。
ムッとするような空気と、それにも勝る人いきれが王宮を満たしている。
どこからか、漂ってくるのは花の香り。
遠い南国を思わせる甘く官能的なそれさえ、ねっとりと身体にまとわりついてくるようで、ひどく息苦しい。
アデルは、顔では王の母親らしい穏やかな微笑みを作りながら、こっそりと小さなため息をつく。
王宮では、夏の夜祭りが開かれている。
昔、日照りが何日も何日も続いた年に、生命を賭して祈りを捧げた聖人に感謝する催しだ。
祈りを捧げる暇があるなら、井戸の一つも掘ればいい。そのほうがよほど人々の役に立つだろうに。
(祈りなんか、お腹の足しにもならないわ)
もしも、今度日照りが続くようなことがあれば、王には祈りではなく井戸のほうを箴言しようと心に決めながら、アデルは傍らに目を向ける。
生まれ落ちると同時に王となった我が子は七歳になった。
今は、小さな身体には似合わぬ大きな玉座に行儀よく座り、ひっきりなしに訪れる列席者を生真面目な顔で迎えている。
我が子の名はダリル。
ギデオンと出会った日、別れたきりの弟と同じ名前を付けたのは、もう二度と会うことのない弟への、せめてもの償いだった。
あの子のことは一日たりとも忘れたことはない。
無知で愚かだった自分には、弟を守ってやることはできなかった。
でも、今は……。
アデルは、藍色の瞳だけを動かして、ちらりとギデオンの様子を窺った。
宰相の地位を得たギデオンは、玉座のすぐそばに控えている。
その灰色の瞳は、今もあの頃と同じで、冷徹なまでに静謐だ。
ひとりではないと思えた。
自分にはギデオンがいる。
たとえ、二度とその肌の熱さに触れることはなくても。
アデルは、傍らの我が子に視線を戻すと、周囲には聞こえぬようひそめた声でダリルをたしなめる。
「陛下。背中が曲がっていますよ」
昔、ギデオンに行儀作法を仕込まれていた頃、アデルもよくそう言ってギデオンに叱られた。
今は同じことをアデルがダリルにしている。
アデルの言葉が終わらないうちに、ダリルはその薔薇色のまろい頬を引き締めピンと背を伸ばした。
アデルの口元に浮かんだのは、装ったものではない本物の笑み。
誰に似たのか、賢い子だ。
まだ幼いながらも、自分が王であることを心得ていて、精いっぱいそれに相応しくあろうとしている。
健気だった。その素直さがいとおしかった。
それだけに、よりいっそう哀れでもある。
(かわいそうに……)
もしも、王の子として生まれることがなければ、もっと年相応の子供らしい生き方ができただろうに。
だが、仕方がない。それがこの子の運命だったのだ。
アデルがそうであったように、この子も抗えぬ大きな流れの中を生きている。
だからこそ、厳しい母でいなければならないのだとアデルは自身に言い聞かせた。
ダリルを、少なくともダリルの伯父である―――あるいは、一方は父かもしれない―――あの二人の愚かな男たちのような大人に育ててはならない。
ギデオンに教えられたことは、何度もアデルの身を助けてくれた。それがいつかダリルを救う日も来るだろう。
せめて、とアデルは思う。
(せめて、あとでたくさん褒めてあげよう)
立派でしたよと、あなたはお母さまの誇りですと、この手でしっかりと抱き締めてあげよう。
先王の四人の子供たちは親に顧みられることなく成長したという。それが彼らをあのような悲劇に導いたのであれば、自分は繰り返してはならない。
この子には父親はいないけれど、それを補って余りあるほどの母の愛を注いでいくことが、この呪われた運命の中へダリルを生み落としてしまったアデルの務めだ。
うっそりとした葛藤を胸の奥深く飲み込み、アデルは再び笑顔を作った。
ダリルとアデルの前では、次の客がひざまずき深々と頭を下げている。
客は東方からやってきた商人だそうだ。
若くはないが年寄りでもない。その壮年の男は、頭にターバンを巻き、東方ふうのゆったりした装束に身を包んでいる。
すぐ後ろには息子だという青年を従えていた。父と同じように頭にターバンを巻いてはいるが、こちらは身体に寄り添うぴったりした服を身に着け、大ぶりな腰帯を巻いている。
父親のほうが頭を下げたまま口を開いた。
「商人のアイマンにございます。国王陛下におかれましては、ご機嫌麗しく執着至極にございます」
商人らしいそつのない穏やかな声だった。国王に目通りがかなうくらいだから、おそらく、かなり裕福な商人なのだろう。
「お顔を上げて楽になさってください」
ダリルが幼い声で言う。
ダリルには、たとえ相手が貴族でなくても丁寧な言葉を心がけるよう厳しく教えた。
『相手の身分が低いからといって、侮り、見下すのは愚かなことです。どんな人に対しても、誠実でありなさい。そして、すべての国民を国王として愛しなさい』
今のところ、ダリルはその母の教えをきちんと守っている。
アイマンが感心したような笑みを浮かべて顔を上げた。まるで、孫を見守るかのようなやさしい眼差しだ。
「お気遣いありがとうございます。このアイマン、陛下のあたたかいお心づかいに感激しております」
「そちらはご子息ですか?」
「はい。ハドルと申します。ハドル」
父親に促され、ハドルと呼ばれた息子が顔を上げる。
(え……?)
アデルは思わず息を飲んだ。
似ている。
今、アデルの前でかしずいている青年は、生き別れたままの弟ダリルに、あまりにもよく似ている。
ハドルの、目元も、口元も、顎の形でさえ、もし弟が生き永らえていたら、きっと、そうなっているだろうと、アデルが思い描いたそのままだった。
(もしかして、ダリルなの……?)
いや。そんなはずはない。ダリルは死んだはず。
ギデオンだってそう言っていた。
もちろん、ダリルの死体を確認したわけではないが、あの時、ダリルはお腹が痛いとひどく苦しんでいた。
病気になった奴隷など、誰も手当はしてくれない。
ましてや、やっと十歳になったばかりの子供。ダリルがどうなるか、奴隷であったアデルには容易く想像がついた。
(生きているはずがないわ)
わかっている。
(他人の空似よ)
なのに、違うと誰かが叫んでいる。
『この子はダリルよ! 生き別れになった、私の弟よ! ダリルは生きていたの! 生きていたのよ!』
眩暈がした。
心臓は今にも壊れそうなほどに、ドッ、ドッ、と激しく鼓動を刻んでいる。
浅く喘ぐ吐息を強張る微笑みの下に押し隠し、アデルは恐る恐る目の前の青年に目を向けた。
ハドルは、身体つきこそ小柄だったが、血色がよく、四肢は若者らしく伸びやかで、すこぶる健康そうだ。
一方、弟のダリルは、身体が小さかったのはもちろん、手も足も骨が浮き出るほどにやせ細っていた。ろくに食べるものもなく、毎日厳しい労働を続けざるをえなかったのだから、まともな成長など望むべくもなかったのだ。
髪の色は、ダリルが薄茶だったのに対して、ハドルのほうはいかにも東方人らしい濃い鳶色だ。
でも、髪なんていくらでも染められる。
だったら、目の色は?
目の色ならば、簡単には変えられないはず。
ダリルの目はアデルと同じだ。
昔、よく似ていると皆に言われた深い藍色。
そして、ハドルも――――。
誰にもわからぬようこそりと深い息を細く細く吐き出したあと、アデルは震えながら飾り袖の下で左の指を一本だけ立てた。
忘れもしない。
これは、ふたりだけの合図。
声を出すことさえ禁じられていたあのウォードの農場で、せめてもの心の慰めにとふたりで決めたルール。
アデルが左手の指を一本だけ立てる。
それを見たダリルは、左手の指を二本立ててアデルに返事を返す。
たったそれだけでも、心は満たされた。自分は決して一人じゃないのだ。その思いがつらいだけの作業の中アデルを強くしていった。
じっと見守るアデルの前で、ハドルがさりげなく自身の左の指を二本立てた。
(ああ……!)
歓喜が溢れた。
この青年はダリルだ。まちがいなく自分の弟だ。
よくぞ、生きていてくれた。
よくぞ、会いに来てくれた。
ダリルが、どういう経緯で商人の息子となりハドルと名乗ることになったのか、そして、なぜアデルの境遇を知り得たのか、わからないことはたくさんある。
でも、今は、再びこうして生きて相まみえたことが、ただ、ただ、うれしくてたまらない。
ダリルはどう思ったのだろう。
アデルが指で合図を送った時、その藍色の瞳がわずかに細く歪んだような気がしたが、それも、一瞬のこと。束の間の変化は、すぐに浮かべられた若者らしい溌剌とした笑みの下に消えていってしまった。
「本日は陛下に献上したいものがございまして、御前にまかりこしてございます」
アイマンがそう言って目配せすると、ハドルは手にしていた大きな荷物の上から錦の覆いを取り去る。
現れたのは鳥籠だ。鳥籠の中の止まり木には、見たこともないほど鮮やかな青い色をした大きな鳥が一羽だけ止まっている。
傍らのダリルは一瞬でその鳥に心を奪われたようだった。玉座から身を乗り出すようにして、その青い鳥を見つめている。
ハドルは鳥籠を捧げ持つとダリルに一歩近づいた。
「陛下。この鳥は人の言葉を話す鳥でございます」
「話す? ほんとうに?」
「はい。教えれば、陛下のお名前もお呼びするようになるでしょう」
ダリルは、ちょっとだけ考えて、それから、籠の中の鳥に向かって話しかける。
「僕は、ダリル。呼んでごらん。ダ・リ・ル。ダリルだよ」
青い鳥は、わずかの間戸惑うように左右に視線を向けたあと、おもむろに、広間じゅうに響き渡るような声を上げる。
「ダリル!」
「そうだよ。僕はダリルだよ」
「ダリル! ダリル! アイシテル!」
ダリルの目が輝いた。
「すごい! なんて賢い鳥なんだ!」
すっかり夢中になっているダリルに、アイマンが穏やかな声で語りかけた。
「陛下。この鳥はまだ子供です」
「子供? こんなに大きいのに?」
「はい。とても長生きをする鳥なのですよ。人間と同じくらい生きると言われています」
ダリルは籠の中をじっと見つめる。
青い鳥もまたダリルを見つめ返している。
「この鳥は、一生の間、ただ一つの愛に生きるとも言われています。もし、陛下がこの鳥をかわいがってくだされば、この鳥にとって、陛下が唯一無二の愛を捧げる相手となりましょう」
アイマンの言葉に、ダリルは生真面目な顔をしてうなずいた。
周囲からはひそひそと陰口が聞こえてくる。
『よく言うわ。どうせ、陛下のお名を呼ぶよう、予め、あの鳥を仕込んでいたくせに』
『鳥に、愛している、などと言わせるとは、とんだ不敬だ』
『しょせん、卑しき商人風情の考えることなどその程度。陛下が子供だと思って侮っているのだろう』
確かに、そうなのかもしれない。
『ダリル。愛してる』
あの青い鳥にそう話すよう仕込んだのは、商人としてのアイマンの下心なのかも。
でも、アデルは思わずにはいられなかった。
『ダリル。愛してる』
あの鳥がそう囀るたびに、弟はいったいどういう気持ちでいたのだろうかと。
***
ひっきりなしに続いた客人たちの列がようやく途絶えると、アデルは護衛の兵士たちにダリルを任せ、庭へと足を向けた。
少しの間でいいから、ひとりになりたかった。ひとりになって、弟のことを考えたかった。
王であるダリルについている護衛たちは、その忠誠心も、剣士としての腕前も、誰ひとりとして信用できない者はいなかった。
護衛たちだけではない。
ダリルに直接目通りする者は、文官も、侍従も、すべてギデオンが厳選した者たちばかりだ。
ギデオンの復讐は今でも続いている。
自身を蔑ろにした者たちとは違う生き方をすることで、彼は彼の復讐を完遂しようとしている。
ギデオンがいつでもアデルとダリルを守ってくれるのは、あるいは、自分たち母子がギデオンの復讐に必要だからなのかもしれない。
だとしても、アデルとアデルの息子のダリルは彼の庇護の下でこれまでぬくぬくと生きてくることができた。
だが、弟のダリルはいったいどんな人生を送ってきたのだろう。
弟のことを思うと胸が痛む。何もしてやれなかった自分が、歯がゆく、もどかしい。
「ああ……」
嗚咽がこみ上げてくる。それを必死になってこらえながら、両手で顔を覆う。
夜気に触れ、花の香りがいっそう強く立ち上った。
むせかえるような甘い甘い官能的な香り。
息ができなくなる。
頭がくらくらした。
アデルはふらつく足で庭園の片隅に歩み寄る。
この庭園には人工的な洞窟が作られていた。
盛夏の日中、強い陽射しを避けて休むための簡素なものだが、そこでなら誰にも見咎められずしばらく休むことができるはずだ。
やっとの思いで洞窟にたどり着き、アデルは石造りのベンチに倒れ込んだ。
唇から深い深い息が溢れた。
ダリル。ダリル。
死んだと思っていたあの子が生きていた。
奴隷だったアデルにとって、あの子はたったひとりの家族だった。アデルがまだ青い手をしていた頃、アデルには弟のダリルしかいなかった。
「ダリル……」
思わずつぶやいたその時、ふいに、洞窟の奥で何かの気配がした。
「誰……?」
アデルは、身を起こし、暗闇に向かって誰何する。
「誰かいるの……?」
ここは王家の庭だ。今宵は夜祭で大勢の客が集まってはいるが、この庭に勝手に足を踏み入れることは禁じられている。
もしかして、小動物か何かが迷い込んだのだろうか。
訝しみつつ目をこらしていると、再び空気が揺れた。
暗闇の中から現れたのは、東方ふうの服に身を包んだ青年―――。
「ダリル……」
アデルは迷うことなく弟の名を呼んだ。
「ダリル……。あなた、生きていたのね……」
ダリルは、一言も発することなく、アデルの近くまで歩み寄ると、すっかりたくましくなった両手でアデルを抱き締める。
「今はハドルです。王太后陛下」
アデルは、自分よりも随分背の高くなった弟の胸に額を擦りつけ、首を横に振った。
「いいえ。あなたはダリルよ。わたしの弟のダリル。死んだものだと思っていた。もう、すっかりあきらめていたの。でも、生きていたのね」
「……はい」
「教えてちょうだい。ダリルはどうしてハドルになったの?」
「それは……」
「言いたくないのなら言わなくていいのよ」
アデルだってダリルに言えないことはたくさんある。
「ただ、ダリルがとてもつらい思いをしてきたのではないかと、それだけが気になって……」
ダリルの藍色の瞳にうっすらと笑みが浮かんだ。
「あなたは昔と少しも変わらない。いつでも俺のことばかり。あなただって、とてもつらい思いをしてきたのではないですか?」
卑しき奴隷が王の母になったのだ。
普通ではとても考えられないことが起こったのだし、アデル自身もおぞましいほどの悪意や危険にさらされた。
でも、今となっては、全部過ぎ去ったこと。
「いいえ……。つらいことなんて、何もなかったわ」
アデルは言った。
「私は運命に流されてここまで漂いついただけ」
ギデオンに言われるがまま、復讐の片棒を担いだだけ。
「俺もです」
ダリルが答える。
「俺も、つらいことなど何もありませんでした」
「ほんとうに?」
「はい。あのあと、俺は森に捨てられたんです」
「捨てられた?」
「当時、俺はひどい熱を出していたからはっきりとは覚えていないんですけど、離れ離れになってすぐのことだったと思います」
「そんな……!」
アデルは驚いて声を上げる。
ギデオンはたぶん売られたのではないかと言っていたが、ダリルはそれ以上のひどい目に遭っていたのだ。
「でも、俺はとても幸運だったんです」
ダリルの声は静かだった。
「道端に捨てられていた俺はすぐに拾われて、手当を受けることができたんです」
「そう……。そうなのね……」
「俺を拾ってくれたのは旅の商人でした。その商人は数か月前に俺と同じ年頃のひとり息子を亡くしたばかりで、俺のことを放っておくことができなかったそうです。商人は、俺を家に連れ帰り、養子としました。商人の妻も息子が帰ってきたようだと言って俺をたいそうかわいがってくれました」
「それがあのアイマンという商人なの?」
「そうです。ハドルというのは、亡くなったアイマンの息子の名前です。俺は、今、ハドルとしてハドルの人生を生きています。きっと、それが俺の運命だったのでしょう」
ダリルの人生は、おそらく、かいつまんで語られた言葉よりも、もっと、ずっと、過酷なものであったはずだ。
言葉の奥に滲むものがアデルにそれを教えてくれる。
「いいのよ。どんな運命でも」
アデルはダリルの頬を両手で包みそっと微笑みかける。
「生きて再びこうして会えた。それ以上の喜びはないもの」
常に冷静さを失わなかったダリルの瞳に、一瞬、強い感情が浮かんだ。
「おねえちゃん」
強い力で抱き締められる。
「会いたかった。ずっと、ずっと、会いたくてたまらなかった」
「ダリル……」
「国王陛下の戴冠式のパレードの時、城下でおねえちゃんの姿を見たんだ。俺にはすぐにわかった。あれはおねえちゃんだって。どうしてこんなことになったのかはわからないけど、でも、おねえちゃんが生きててよかったって、生きてるなら、いつか、絶対に会いに行こうって、今夜、やっと、その夢が叶ったんだ」
「ごめんね」
そう言いながら、アデルはダリルにも負けないほどの強い力でダリルを抱き締め返す。
「守ってあげられなくて、ごめんね」
ダリルが首を横に振る。
「いいんだ。俺のことは。それよりも、あの子を守ってあげて」
「あの子?」
「もうひとりのダリル。あの子は俺の甥だよね? 俺にとって、おねえちゃんとあの子は、たったふたりだけの家族だから」
もう声にはならなかった。
アデルは無言のまま何度も何度もうなずく。
ダリルも何も言わなかった。
ただ、すがりつくようにダリルのぬくもりを感じていると、ふいに、ふたりの上に影が差した。
誰かが洞窟の入口に立ったのだ。
「時間だ」
簡潔な声は、聞き間違えようもないギデオンのそれ。
ダリルはアデルの身体をそっと離す。
「もう行くよ」
アデルは離れていこうとする弟に必死で追いすがった。
「また会える?」
「生きていれば、きっと、いつかは、また会えるよ」
「手紙は?」
「手紙は危険だよ。どこで誰に見られるかわからない」
ダリルの言うことはもっともだ。
「そうね……。そのとおりね……」
がっくりと肩を落としたアデルに一瞬せつなげな目を向けたあと、ダリルはそれを振り切るようにしてギデオンに視線を移した。
「宰相閣下には特別なご配慮をいただきありがとうございました。お陰で今宵は積年の望みが叶いました」
ギデオンは何も答えない。ただ、いつもと変わらぬ静謐な眼差しがダリルを見下ろしているばかりだ。
ダリルはひるむことなくその眼差しを見据えて言った。
「俺は宰相閣下と王太后陛下の間に何があったのか知らないし、たぶん、それは知らないほうがいいってこともわかってる。でも、一つだけ、宰相閣下に聞きたいことがあるんだ」
ギデオンはやはり何も答えなかった。
それを『是』と捉えて、ダリルが言葉を募らせる。
「姉と俺をあの農場主から買ったあと、俺を森に捨てに行ったのはあなたですよね」
「……」
「あなたは俺に言った。生きることを決してあきらめるなと、生きてさえいれば、いつか、望みが叶う日が訪れるかもしれないと、熱に浮かされる俺の耳元で何度も繰り返した。あなたのその言葉に救われた日もあった。今、ここで、お礼を申し上げたい」
それが最後だった。
ダリルの背中が消えていく。
闇に紛れて見えなくなる。
アデルはしばし呆然としてそれを見送っていた。
身体からごっそりと力が抜け落ちたようだった。
まるで、長い夢から醒めたような心地だ。
(いいえ……。夢なんかではないわ……)
掌にはまだダリルのぬくもりが残っている。
アデルは、ゆっくりと立ち上がると、ギデオンに眼差しを向けた。
「あなたがあの子の手引きをしたの?」
ギデオンは、自然な仕草でアデルに手を貸し、なんでもないことのように答える。
「王太后陛下の秘密を知っていると言われた。バラされるわけにもいかないので、仕方なく、夜祭で国王陛下に謁見できるよう取り計らった。それだけだ」
ダリルはギデオンのことを覚えていた。だから、ギデオンに接触した。
たぶん、ギデオンにもハドルの正体がわかったのだろう。
ダリルであれば、アデルに会わせても支障がないと判断したから、この庭園でふたりがこっそりと会えるよう画策したに違いない。
「ダリルは売られたって言ってたのに。あれはうそだったのね」
「そんなことを言ったかな」
「とぼけないで」
「とぼけてなどいない。彼だって、言ってただろう。熱があって、その時のことはよく覚えていないと。きっと、何か勘違いをしているんだろう」
(うそつき)
アデルは心の中で罵った。
ダリルが語ったことは具体的で、高熱が見せた妄想だったとはとても思えなかった。
だが、どんなに問い詰めたってギデオンはほんとうのことは言わないだろう。
あるいは、とアデルは思う。
あるいは、ギデオンはほんとうはアイマンがそこを通りがかることを知っていたのではないだろうか?
ひとり息子を亡くしたばかりのアイマンが息子と同じ年頃のダリルを見捨てることはないだろうと見越して、アイマンに容易に気づかれるようにダリルを捨てた。
もう一歩踏み込んで、アイマンにダリルを直接託した可能性だってある。
オーウェンがダリルのことを気にしたことなど一度だってあるまいが、それでも、生きていると知れれば、きっと、殺される。
東方の異国であれば、オーウェンの目もまず届くまい。
こんな時、アデルはふと思うのだ。
(もしかして、これは愛なのかしら?)
ギデオンはいつでもアデルが望むとおりに取り計らってくれる。アデルが困らぬよう予め道を作って用意してくれる。
まるで、全身全霊で尽くされているようだ。
たったひとかけらの愛もない相手に、人はそこまでできるものだろうか?
だが、アデルはすぐにその思いをどこかへ追いやった。
(どちらでもいいわ)
愛されてようがいまいが、もう、アデルはギデオンからは離れられない。
自分たちはそういうふたりなのだ。
「行きましょう。陛下が心配なさっているかもしれないわ」
息子のダリルはとてもしっかりした子供ではあるけれど、まだ七歳だ。時には母の存在を恋しがることもある。
ゆっくりと洞窟を出て、王宮へと向かう。
夜祭りは酣のようだ。
蒸し暑い空気に乗って人いきれがここまで届いてくる。
それに混じって、鳥の声が聞こえてきた。
一生に、ただ一つの愛しか持たない鳥が高らかに囀る。
『ダリル。アイシテル』
アデルは、心の中で、その言葉をそっと繰り返した。
8月28日配信開始です ― 2020年08月25日 09:47
お久しぶりです。
お久ぶり過ぎる! ごめんなさい……。
久しぶりに原稿書きました。
ほぼ2年くらい遠ざかっていたので書けなくなってたらどうしようってちょっと思ったのですが、無事楽しく書けました。ヨカッタ。
タイトルは、
『国王陛下は恋を知らない王女を愛でる~略奪の花嫁~』
サブタイトルを見てお気づきになった方もいらっしゃるかもわかりませんが、以前ステラノベルスさまで配信していただいていたものを大幅改稿いたしました。
国王陛下は優等生から俺様に、王女はひたすら流され受け身からもうちょっと普通寄りにキャラ変、ニューキャラ登場の上構成を変更、更に、後日譚を書き添えています。 大まかなあらすじは変わっていませんので、まんまじゃんと思われる方もいらっしゃるでしょうし、これだけキャラ変わってたら別物と感じられる方もいらっしゃるでしょう。
そのあたりは読んでくださった方それぞれだと思いますが、その後のラブラブなふたりも追加していますので、よかったら見てやってください。 ラストは大団円になってると思います。うん。大団円。
あ! イラストさまも変わりました。
今回は白崎小夜さまが描いてくださってます。
白崎さまの描かれるちょっと憂いある男性って、ほんとステキv
『略奪の花嫁』は、当初は50枚くらいということでお話をいただき書いたお話でした。
その後いろいろありまして(涙)、結局、ステラノベルスさまに拾っていただき、加筆修正の上配信していただくことになった次第です。
そのステラノベルスさまも配信を停止され、今回ロイヤルキスさまで再度配信していただくことになりました。
ほんと、いろんなことがあるものですね。
とはいえ、姫野としては、改めてお話を描くのは楽しいなと思わせてくれた一作でもあります。
特に、途中、ふたりの気持ちがすれ違っている時は、姫野も書いていて息苦しかったのですが、最後、大団円を迎えられて、ほんとにほっとしました(最後はお母さま無双だった。出番極少なのに…)。
お久ぶり過ぎる! ごめんなさい……。
久しぶりに原稿書きました。
ほぼ2年くらい遠ざかっていたので書けなくなってたらどうしようってちょっと思ったのですが、無事楽しく書けました。ヨカッタ。
タイトルは、
『国王陛下は恋を知らない王女を愛でる~略奪の花嫁~』
サブタイトルを見てお気づきになった方もいらっしゃるかもわかりませんが、以前ステラノベルスさまで配信していただいていたものを大幅改稿いたしました。
国王陛下は優等生から俺様に、王女はひたすら流され受け身からもうちょっと普通寄りにキャラ変、ニューキャラ登場の上構成を変更、更に、後日譚を書き添えています。 大まかなあらすじは変わっていませんので、まんまじゃんと思われる方もいらっしゃるでしょうし、これだけキャラ変わってたら別物と感じられる方もいらっしゃるでしょう。
そのあたりは読んでくださった方それぞれだと思いますが、その後のラブラブなふたりも追加していますので、よかったら見てやってください。 ラストは大団円になってると思います。うん。大団円。
あ! イラストさまも変わりました。
今回は白崎小夜さまが描いてくださってます。
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ほんと、いろんなことがあるものですね。
とはいえ、姫野としては、改めてお話を描くのは楽しいなと思わせてくれた一作でもあります。
特に、途中、ふたりの気持ちがすれ違っている時は、姫野も書いていて息苦しかったのですが、最後、大団円を迎えられて、ほんとにほっとしました(最後はお母さま無双だった。出番極少なのに…)。